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奥村雄樹 Yuki OKUMURA

 オサルスは高所恐怖症なので出来るだけ高い場所にはいかないようにしているんです。
六本木ヒルズの森美術館に行った時は、ぜったいに窓側には近づかないぞ・・・と。近づかないのに左手に東京タワーが、それも下に見えるんだもんな〜。ぞぞぞぞ〜〜。

 超高層ビルの壁は、外と内をしきるカーテンの役割をする 『カーテンウォール』 というはめ込み式スタイル。パタン、パタンと何かの拍子で落ちてしまったら、怖いよね〜〜。
そこから落ちる瞬間を想像しちゃうと、とにかく怖い。
怖い怖いと言っているのに、何故か今日は東京オペラシティーの54階のレストランにいるんです。

 階下の 東京オペラシティアートギャラリーではTime of My Life 永遠の少年達(2004.2.21[土]─ 5.9[日])を開催中。Time of My Life とは、〈永遠の青春〉を疾走し続けるアーティストたちの系譜を辿る展覧会
 そこで気になったのが奥村雄樹さんの作品。
つばに陰毛におちんちん・・・ビデオの作品ではつばをフライパンで煮詰めてカスを抽出。
うッ! エグい!!
『表面的にはビーズの作品も写真もきれいな作品に見えますがよく見れば毒がある。青春もただキラキラしたきれいなものではなくて苦みや痛みを伴うものだ』 という側面から選ばれたのか??

 真意をチーフキュレーターの掘さんにお聞きすると、

『直感的なものです。論理だって説明するのは難しいですね』  という返答。

 ん〜。直感ねぇ。じゃあ、オサルスも直感で聞いてみようと、奥村さんにメールをすると、話をするならパークハイアットのすごーく景色のよいレストラン (カフェ?) がいいという希望。
なぜパークハイアットかというと、以前 『いきなりパークハイアットでロマンチッックなデート』 を演出したそうで、その行為は彼の現時点での表現の本質的な部分に深い関わりがあるらしいのです。

 『このコテコテの行動、そして周りの反応は、まさしく僕の作品のそれと同じです。僕の作品は、実はひどくセンチメンタルでロマンチックなものだと思っています(それを狙っています)。アブない意味で...。
オペラシティのオープニングでも、H2Oというバンドの(思い出がいっぱいという)、昔流行した青春ソングを切なくダサくヘタウマに、ギターで弾き語るというパフォーマンスをしましたが、それも(コテコテ)を批評的に表現するため? でした。なので、作品の話をするにはもってこいのシチュエーションかな、なんて』
 え〜〜。パークハイアットといったらランチが5000円もするんですよ。ん〜5000円は絶対無理だけど、出来るだけ同じシチューエーションになるようにがんばりました。結果、只今東京オペラシティーの54階のレストラン、それも窓際。どうですクラクラする眺めでしょ。まあ、オサルスと一緒じゃロマンティックな気分というよりも親子だけどね。『息子よ』 と語りかけても不毛だ。とにかくランチでも食べましょう。
 パークハイアットのランチよりは値段が安いけど、結構豪華だし美味しかった。
これがご馳走してくれたというなら、母さん泣けちゃうけどな〜。

奥村さんとの出会いは2001年の 『ニューヨーク フィリップ モリス アート アワード入賞者24人展』
ただ、すっかり彼の事を忘れていてネットで検索、そうしたら自分が取材した記事が、毎度ながら間抜けだよね。まあ、そんなこんなで、奥村さんの作品。オサルスは、どちらかというと平面の絵が好きかなって・・・。

 「僕の作品は、もとは同じで平面上に置き換えるか行為に置き換えるかだけですし、描き方はシスティマティックな描き方だからすぐ描けるんですよ。身体の実態は描かないで部品と周りの空間だけ描くって感じにしているんです」

 ・・・部品を描いていて周りの方は何て?

 「学校のアトリエで描いてましたから、キモイとか、半分ふざけていっていると思うんですけど(笑)、あのビデオは気持ち悪いといわれました」

 ・・・即答するけど、あれは気持ち悪い。ところで、ある本で
『言葉はロジックによって生み出されるというよりは、根本に感情があり、ある感情をもつとあとは勝手に生成されてしまう』
というのを読んだ事があるのですが、奥村さんの作品も、ある感情みたいなものがまずあって出来上がるものなんですか。

「感情という言葉は、イマイチ解ってないんです。もとにあるのは感覚で、それを作ろうと思うのは感情でしょ。僕自身はコンセプチュアルな事をやっていると思っています。だから論理的といえばそうなんだけど・・・。感情を具体的にいうとどういう・・・」

・・・『何となくこんな事を言おう』 と思うのと同じように作品も出来上がるのかと思ったからです。例えば奥村さんは爪や唇の皮を集めてますよね。

「(笑)集めてましたね」

・・・身体表現なのかとも思うのですが、よく解らないんです。

「爪や唇や絵も同じなんですが、元々あったのは自分の体に対する実感のなさというか、こんな国に暮らしていて、若くて病気もしていないから、心だけでみたいな感じになっちゃうんです。
体が遠くなっちゃうんですよ。そこで引き寄せようというのじゃなくて、遠いまんまでいかにそれを肯定するかみたいな感じで・・・僕の絵も、部品だけ描くとか体に対する感覚を出しているつもりなんです。ふわふわした質感も非現実的で、体がふわふわ浮いているような・・・」

・・・ちょうどよかったね。実際に54階にいると浮いているようなシチューエーションで。

「実際に浮くのは好きじゃないです(笑)」

・・・体を意識しなくなっちゃったんですか。

 「最近は健康的な気分ですけど・・・。
爪は、知り合いから爪をもらって家で夜一人で丸めたりしていじっていると、その人の体を実際触っているような気分になってくるんです。匂いとかでその人を思い浮かべて、コミュニケーションしているような気分になって、間接的な感じですが、それが気持ちよくてたまんねーなみたいな感じで」

 ・・・なるほど。

 「コミュニケーションが苦手なんです。今でも斜めに構えないと、人と会えない感じで、まあ、それはそれで楽しいんですけど。当時は間接的なコミュニケーションをしていて、その事がヤバイとか不健康とかいうよりは、それが面白いじゃんという感じ」

・・・それを作品にしていこうと思い始めてたのはどこからですか。ただ触っているだけだと、趣味みたいなものじゃないですか。フェティシズムを昇華させるから作品になるんじゃないのかな〜。人間のなかの共通了解みたいなものがないと作品にはならないんじゃないかと思うんだけど・・・。

「そこにある欲望を人に伝えたいとか共感して欲しいみたいな・・・こんなたまんねーものを人に伝えない手は無いと思う。そういう欲望は作家にはあるんじゃないでしょうか。

  子供の頃、北海道の海で海鼠みたいなものが、半分死にかけていてどろどろになってもがいていたんです。子供心に、漫画でよくあるじゃないですか。相手が苦しんでいる時に、とどめを刺す事が逆に優しさみたいなものって、踏みつぶしたら、ぐじゅぐじゅと液体が出て、そのぐじゅとした感覚にぞわぞわぞわ〜となって、怖いと思って逃げたんです。
  その経験が強く残っているんですよ。海鼠に心があるかどうか知らないし、彼と解り合えたわけではないけれど、その人の苦しみを勝手に感じちゃったというか・・・一種の物語というかトリックだと思うのですが、それが残っていて、爪にしても実際触ってないのに触った気になってしまう。
そういう力を体の部品は持っているなと、それを利用して自分の体の霊体的な感覚だとかコミュニケーションの感覚とかを肯定的に茶化してみせようと、はじめは取り敢えずそういう感じです」

・・・茶化すというのは解らないけれど、好きな気持ちというか、自分のなかにも無性に触りたいものがあるから、そういうフェティシズム的なものは解るかな。ん〜。でももうちょっと説明してくれますか。メールにロマンティックという言葉があったでしょ。だからこのシチューエーションにしたんですけど。

「そう重要ですね。具体的な話になりますが、陰毛にビーズを通した作品は、基本的に考えたのは、見た目はキラキラしてきれいな作品だから女の子が寄ってくるわけですね。でもじっと見ると陰毛じゃんと、はじめは表面的なきれいさとか可愛さで呼び寄せて相手に受け入れてもらって、そのあとに陰毛だという事でburstしちゃう」

・・・その行為事態がロマンティックかぁ・・・。

 「ロマンティックだとかセンチメンタルという感覚が最近は凄く大事になってきて、さっきまでの話は初期の作品の話なんです。例えばこの指輪は何でしょう。実は僕のおちんちん先の型どりなんです」

 ・・・何でそんなものを型に取るんですか(笑)?

 「その時指輪を作りたかったから、これもだいぶ前なんですが、さりげなく皆これを見るわけですよ。形はそこから取ったというとウゲゲゲとなっちゃう。女の子に見せて最初は可愛いねというんですが、ちゃんと本当の事を話すとふざけんなとなるんです」

 ・・・私は全然ウゲゲゲとはならない。いいじゃん。

「たぶんシャイな露出狂かもしれないですね(笑)」

・・・いいねえ。それ(笑)。でも掘さんがカタログに
『身体や身近な日常性への関心、個人的かつ断片的な物語性への偏愛、些細なものや矮小なものへの注目など、・・・90年代半ば以降に顕在化した美術の動向と呼応している』
と書かれていたけれど、何か90年代半ば以降に顕在化した美術の動向というのが、オブラートに包んだような感じかなと思うんです。
奥村さんの唾の作品で思い出したんだけど、開高健の小説に、戦後の闇市で、痰壷から痰を生牡蠣だと称して飲む場面があるんですよ。オエー。でも、内容を忘れちゃったから説得力が無いけど、それを読んだ私は生きるという事が、このくらい凄まじいものだと感じたということなんです。生きている事は身体を伴うものでしょ。まあ、開高健の小説は生きる事に対するエネルギーが凄いから、ピントがずれているといえばそれまでだけどね。

「確実にオブラートにくるみますよね。くるまないとダサイじゃないですか。感覚としてダサイというか恥ずかしいというか。『オブラートにくるんでるよ』 と、いっちゃいつつ見せる事がかっこいいんじゃないかな」

・・・なるほどね。オブラートにくるむのは今の段階じゃしょうがないけれど、何処かで脱ぎ捨てなきゃならない時があるんじゃないかなと思うけど。なんか夢想のなかにいるような感じは受けるね。

「オブラートにくるんでるけど、オブラート事態がリアルなものかもしれないじゃないですか」

・・・ん〜。そうね。こんなに高い所にいても、カーテンウォールは、絶対落ちないものだと何処かで安心しているものね。落ちるということにリアリティーはないよね。

「僕の絵の何が気に入ったんですか」

・・・言葉にはならないけれど、感覚的にいいな〜と、新鮮なイメージをもったんです。ビーズや何かの作品よりも絵画を描いて伸びていく人だと思ったから。

 「痛いところをつきますね。絵に専念したらという人がいましたよ」

・・・そうじゃなくて、見たいものはどちらと聞かれたら絵を見たいと思う。今回の展覧会が一瞬の花火かもしれないし、次は解らないでしょ。どういう風に打ち上げるかは自分次第だからね。

「ネットに書くと云うことは人に見てもらいたいとか伝えたいとかという欲望があるんですか」

・・・私の文章は誤字脱字が凄いんです(笑)。私はプロのインタビューアーでもなければ、評論するつもりもないしできない。
批判するつもりもない、一期一会でその人に会って、その人が話した事を私の切り口で紹介するだけです。
ちょっと語弊があるかもしれないけれど、たぶんその人の事をデッサンをしているような・・・絵になっているかどうかは解らないけれど、だから誤字脱字は風景だと思ってくれればいいんだけどな。表現する欲望が先にあったかといえばNOですね。

まあ、私の事はともかくこれからもがんばって下さい。 今日は ありがとうございました。

Time of My Life 永遠の少年達展のカタログ? が凄く凝っているんです。この白い袋、写真じゃ解らないけど、触るとペタペタというかムニムニというか、触感がすごく面白い。永遠の少年のイメージにピッタリ。これぞ青春だみたいな・・・。中身は袋を破らないと見れないんですよ。何か意味深でいいな〜。
NEXT期待してます。

関連情報 2001.6

東京オペラシティーアートギャラリー
東京都新宿区西新宿3-20-2 Phone 03-5353-0756
http://www.operacity.jp/ag/

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