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土屋多加史 TAKAFUMI TSUCHIYA

土屋多加史展 2005. 3/7 - 3/31
ギャラリーイセヨシ 東京都中央区銀座8-8-19 伊勢由ビル2F 03-3571-8388 http://www.ginza-iseyoshi.co.jp

 エレベーターを下りると。カレイドスコープのような作品に目がとまった。

 増殖しながら生成を繰り返す不思議な光景。
触って愛でてみたいと気持ちが動く。
触ればきっと低反発するウレタンのまとわりつくような心地良さが得られるはず・・・。

 絵画に触り心地がいいなんて変な話だけどね。聞いてみましょう。

・・・作品のキーポイントを教えてください。

 基本的に考えているのは、素材にアプローチするということです。素材に装いをあたえるという考え方で制作しています。一方的にもののイメージを付加させて作品たらしめるということではなくて・・・装わせるというのは元々支持体があってそこに装いがあたえられること。
両者が絡み合ってあるべき姿になっていくんですが、それを作家が一方的に作っていくのではなく・・・素材となり支持体となるものを引き出しつつ、そうすることで、自分のイメージも、両方成り立っていくような差し引き関係を作りたいなというのがまずありますね。

・・・かなり空間ということを意識して制作されていると思うのですけど、装いと空間。どういう関係が成り立つのですか。

 全部同じ質で均一に塗ってしまうことにひどく抵抗があって地を残して描くことが多いのですが、今は支持体に絹を使ったり、光沢のあるものを使ってるんですけど、以前は、ウールの布とか光を吸収する素材を使っていました。
でも素材が変わっても自分が描くことには変わりはないわけです。

  描くことが空間らしきことになっていくことの始まりだと思えるので、そこで支持体には色彩だけに換算されないものを用いたいと・・・。
物質と色彩というのは、あわせ鏡のようにどちらとも分けて考えることができないもの。物質感を全面に押し出した地に、描くという行為で、絵具という物質をかかわらせ、質の違いを見せていくわけです。

  そこに現実の光が必要になるんですけど、絵の中には・・・絵の中の空間のための描写法、陰影法があります。逆に言えば現実の側にも陰影の世界があるわけですよね。現実の光とあいまって図像が見えるような状態で空間を作っていこうと。
光の加減で図が浮き出て見えるとか、光沢があることで浮き出て見えるとか、それは絵の中の光ではなくて、現実の光をいかに扱っていくかということ。
ですから絵の中の光と現実の光というテクスチャーの違いで空間を作ろうと思っています。言葉にするときには「装わせる」というのが妥当な表現だと思うんです。
つまり絵の中の光をもった図像を装わせる。空間については意識しますが、それは結果的に生じていきます。

・・・コンピューターは使っているんですか。

 使ったりもしますし使わないときもあります。自分の描いた絵を写真に撮って、コンピューターで加工したり、元ネタがわからない状態にまでもっていくこともあります。

・・・なるほど。

  いろいろな絵画をみていくと、とどのつまり支持体に何か描くというバリエーションですよね。そこにコンセプトとかがあると思うんですけど・・・その人なりの装いをあたえて作品は作られているなと思うんです。
これは例え話として適切ではないかもしれませんけど、僕はクラシック・・・たとえばバッハとか日本でいえば雅楽とか、邦楽が好きなんです。
バッハを聞くと、よくわかると思うんですけど、フーガなどは一つの単位が繰り返し繰り返し用いられていて、そこで展開が起き、フレーズが逆になったり、音価というものが長くなったりして、バリエーションができてくる。
結局バッハは職人で、ある手法を用いて作ったわけですよ。それ以上にむしろ音楽を作ったということだと思うんですけど、けど、そこでバッハが、こういう人だった。ああいう人だったということが音楽を聴いただけではわからない。つまり自分というものが、どの距離感であるのかわからない。ある構造物を作ってしまったがゆえに、古典となったような・・・。

・・・音楽はよくわからないんですが、自分と作品と距離を置くということですか?

 素材を埋めないようにかかわる。技法と手法があるだけでもすごく官能的で何回聞いてもすごいと思う。そういう強さというのが・・・パターンで作っても、官能的なものを生んだり、ずっと残ったり、そういう部分で迫れないかと思っているんです。

・・・作品を拝見して、最初にエロティシズムという言葉が頭にパッとひらめいたんです。エロティシズムというよりもエロスを感じたというか。

 エロスというのは、理想を表す。エロスというのは、愛のことですが、男女の愛だけでなく、理想への憧れや、高みへ近づこうとする精神的な欲求も含みますよね。精神的活動は身体を超えていきます。身体は完全なる物質なので、孤立しています。物質は孤立しているのでエロスによって結びつく。しかしながらモノであるという現実がエロスに距離をつくりだす。それを乗り越えようとさらに強く望む・・・。理想というのは、現実に属さないものというイメージがあって、言葉がちょっと見つかりませんが、カジュアルではなくフォーマルなもの、フォーマルを意識していくと、エロティシズムがちょっと出てくるんではないかと・・・。

・・・パターンが絡まりあうことによって・・・その絡まり方が、エロティシズムを醸し出しているように思うんです。 少し話を変えますが、この支持体にシルクを使おうと思ったきっかけを教えてください。

 今までウールの布を使っていて、ウールは光を吸収する素材。それとは逆で、シルクは光を照り返すものですから、反動であったり、あとは服飾関係やファッションとかが好きなので・・・。ファッションは、人体という支持体に装いをあたえるわけですからね。それが絵と関係づけられたりという意味での支持体の選び方でもあるんです。

・・・現代の作品は、あまり身体感が感じられないようなものが結構ある。まぁ、そういう時代だとも思っているんですけどもね。でも土屋さんの作品には身体感を感じたんですよ。

  見るということだけを考えると、作品集だけで満足してしまう。素材についてアプローチすることは、写真では見えない現実の光というものを意識しているので、現場に行かなければ感じられない。そういうメディアの希薄さに対する視覚情報的な身体感は意識しています。

・・・私も実際に展示されているその空間に立たなければ、何も感じられないと思うんです。

 それは重要なことだと思います。

・・・でもパターンで一つのものを作り出していくことは、今まであまり聞いたことがなかったかですね。

 先ほどバッハの話をしましたけど、僕は大学で雅楽部に入っていて・・・日本はお茶とかもそうですが作法がありますよね。必ず形式があってそこに美意識がある。クラシックではバイオリンを演奏するときに、人の身体に自然な状態で奏でられるわけですけど、日本の楽器の場合、雅楽の琵琶は一回こう回してベロンと弾く。これは意味はないんだけれども美しい。その作法とか型というのは、それ自体が美しいものだから、延々と受けつがれてきた。ヴィジュアル的にはそうですよね、そのどこの位置にあるのかわからない美しさ、美意識・・・今の時代にそれが通用するかどうかわからないけれども、そのどこの位置にあるかわからない感覚は必要だなと思います。

・・・イメージというのは、どこから浮かぶんですか。

  たとえば駅には広告がいっぱいありますよね、同じ広告がバーと並んでるときがあるんですよ。ああいうときとかぞくぞくするんですけどね。

 この作品では、モチーフとして選んだのが、蓮のつぼみなんですけど、現代に生きている自分から見たときに蓮の花というのは仏教の花で、昔は世界観の中心として描かれた存在ですよね。でも今の僕の世代というのは、都市生活において蓮の花というのはほとんど見られないもの、そんなに意識されないもの。でも過去にはすごく扱われた花なのに、現在では存在すら架空のイメージがあると思うんです。そういう時間の中で変化してしまった強い存在、そういうものをモチーフで描くことで、理想を具現化するというような・・・どこにあるかわからない美しさというその曖昧な部分を出すのには好都合なモチーフかなと思いました。
何かしら感じるものがあるんですよね。それが何なのかを探りたいんです。

・・・わかるような気がしますね。私は、評論なんかできないけれども、作り手の描いたものから、何かを肌で感じる。気を感じるわけですよ。でも何故、私はそれを感じるんだろうか。逆にいえば、そこに感じる自分がいるわけですね。フィードバックするというか・・・。

  見ては良いけれども触ってはいけないとか。触ってもいいけど食べてはいけないとか、食べてもいいけど、飲み込んではいけないみたいな・・・
先の欲望を刺激されるようなあり方であったらよいと思うんですよ。
今思い出したんですけど、杉浦日向子という漫画家が北斎について書いていたんですが、北斎の娘が“地獄絵図”を描くんですよ。その絵をある家に納めに行きますと、その絵が来たときから、奥方の体調がおかしくなったり、ボヤ騒ぎがあったりして、そこで北斎に見に来てもらったんです。そうしたら絵を描いた娘は『お前はまだまだ未熟ものだな』といわれてしまった。
そこで北斎は、その地獄絵図の中に仏様を、救いをその絵の中に描いた。衝撃をあたえるとか、突き離すことはできるんですよ。でもそこで救いがあるようなそういう印象の絵にはなかなかあったことがありません。それを描くということじゃなくてそういう存在としてありたいなという気持ちはあります。

・・・そうすると葉っぱの作品は?

 緑のうちに切って、時間とともに変化していく色を楽しむものなんです。僕は実家が福島で、東京に出てきて思ったことは、風が吹くと普通木が揺れるじゃないですか。都会は風では揺れないなと、人の動きがなくなったら、この街は終わってしまうなと、人がいなくなったら建物だけが残ってしまうわけですよね。

 人の作り出すものにはある程度の保存期間があって、壊れてしまったら意味ないわけで、人の保存する行為というか・・・それは人の営みのしがらみだと思うのですが、保存ということが形とか、そういうシルエットになったときに象徴となります。でも時間の流れは刻々と変わっていく。その二つの時間軸が存在して世の中が成り立っていると・・・その印象がきっかけとなってこの作品ができました。

・・・その話をお聞きして、先日、新宿で見た 『森山新宿荒木』 の作品を思い出しました。写真はとまっているんだけれども、みんな生きて動いてるように感じた。動きのあるエネルギーが放射されていて、こちらもこの場に生きているのが実感できたというか。

 ある日スナップを撮って、そのスナップを捨ててしまったんです。そうしたら急に自分の記憶がなくなったような気がして変な気持ちになりました。写真はそこからイメージが広げられる。逆にいえば一つ一つの体験があったのに、その写真のおかげで一つのイメージしかできない。思い出すのは写真みたいな・・・そういう変な体験ってきっとあると思うんですよね。
 だから人の考え自体も時間をとめることになり得る。人がイメージから形を作り時間をとめること、そこらへんの観念と現実の身体との葛藤というんですかね。
そういうものが葉っぱで、象徴的に作れればいいなと。そこで“よりしろ”みたいに見えてきたらいいなとそんなことを考えながらポップで明るくいきたいと思ってます。

・・・でもこの葉っぱの作品から、あのシルクの作品へのつながりがよくわからないんですけど。

 最初は紙に絵を描いていたんですけど再生紙だったんです。紙の色が変わっていくのが面白いと思って・・・クレヨンで描いていてもクレヨンの色は変わらないじゃないでか。地の方が変わることで、図の方の見え方が変わってくる。その部分が最初にあったんです。けど作品を多くつくることで分化していったんです。

・・・なるほど。時間の流れはとめられない。
そこに自分がどうか変わってくるかだけですよね。かかわり方がよかったからとか悪かったからだとかだけじゃない。たまたま自分がそこに存在してしまったわけだから、それはしょうがない。どうにもならない身体観みたいなものでね。でも時間は流れるからすべて朽ちていく。そういう意味で様相が変わっていくんですね。

 この作品でいちばん面白いと思うのは、額から外したら壊れてしまう。たとえば家と同じなんですよ。家も人が住まなかったらいつの間にかつぶれてしまう。そういう光景を地元でいっぱい見ているんです。だからこの葉っぱのありようも保存することで、形が壊れずに保たれていく。そういう関わり合い方が、作品を持っている人とできればいいなと思っています。

・・・ものに愛情があるんですね。ものが好きで、そこに何か自分なりのハレのものをあたえてあげて舞台に押し出すというか。まさに落ち葉に装をあたえているわけですね。
愛なんだ。

 落ちている茶色い葉っぱと、プチっと枝から採取する葉っぱでは切る時に痛さが違う。その痛さがなくなったら、ちょっとダメだなと思うんですよ。大量に切っているときは痛さを感じなくていかんいかんと(笑)。

・・・最後にこれからの予定は?

 明日が大学院の卒業式です。 【2003年 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。2004年 同大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程2年在籍】
研究生として学校に一年残ります。それからの予定は決まってません。

・・・そうですか。どうもありがとうございました。

1979年 福島県生まれ。今年26歳。


土屋多加史 展 2005. 3/7 - 3/31 ギャラリーイセヨシ http://www.ginza-iseyoshi.co.jp

 『見る人によっては、軽く見られる作品だし、先生からはおしゃれな作品だねといわれることもあるみたいです。でもケルンでも評判がよかったですし、イタリアのギャラリーからもオファーを頂いてます』
と、イセヨシのオーナー。

 「博士は落ちてしまったんですよ」
と、土屋さんもいってましたが、学校での成績は? らしいけれど、色々な可能性を秘めている方ですね。

 ネットでDESPERADOでの
「植物との縁。室内の分別。時間との間柄。それは古くからの自然の理。また装飾。それも自然の理」
のコメントを拝見して、
“縁起 (一切の事物は、関係によって存在する。縁とは、事物が成立するときに存在する多様な関係のこと)”
という仏教の言葉を思い出しました。だってオサルスは、自分とは他との関係によってしか生まれないものだと思うからね。
それは自然や時間や光・・・everything.

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