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手塚愛子 AIKO TEZUKA

 2005年のVOCA展の記者会見のおり、受賞された方達が順番にコメントを発表されたんですが、この中でオサルスがいちばん気になったのが手塚愛子さんなんです。
その時のコメントを紹介します。

 佳作賞 手塚愛子 〈織られたものーもろさとともに〉〈織り直し〉
「織物の解体やそれをまた織り直すといった作品を出品しました。すでに織られてしまったものや出来上がってしまったものから、それが織られるまでの時間とか、或いは素材といった決して外部に現れてこない何かを、具体的に取り出せないかということを作 品でできないだろうかと制作しています。私にとってこれから既製品の織物を使って、どのように展開していくのかということが、今の自分の制作においての問題だと思っています」

 かなり緊張を強いる状況でも、はっきりとコンセプトがいえるのはご立派! いつか機会があったら、お話をお聞きしたいなと思っていたら、京橋の INAX で展覧会中という情報をキャッチ。まさにGOODタイミングです。
ただ今年のVOCA展まで、オサルスが手塚さんの作品を見たことがなかったのは不思議ですねぇ 。自分では結構見て歩いているつもりだったんだけどなぁ・・・。

聞いてみましょう。

・・・VOCA展で初めて拝見し、今まで全く見たことがなかった作品だったのでとても印象に残りました。それにVOCA展の記者会見の時に、きちんとしたコンセプトを話してらした。あの時は、受賞者は皆あがっていたから、手塚さんの冷静な言い回しに驚きました。

 12月に京都市立芸術大学の博士(後期)課程油画領域の受験があって、それは先生や学生含めて多ければ100人近くにもなる方々の前で、合わせて90分間ほど、自分の作品のプレゼンテーションと口頭試問に答えるという経験があったものですから。

・・・どういう質問をされたんですか。

「どうしてあなたはこういう作品を作ったのか」 とか。
「今あなたがこの作品を作る必要性があるのですか」 というようなものです。
その経験があったものですから、その時の気分を思い出しました。

・・・博士課程の試験というのは論文を書くのではないんですか。

 論文と作品のプレゼンテーションです。論文を口頭諮問の1カ月前に提示して、図書館で公開します。その後口頭諮問の1週間前に自分の使っていたアトリエを会場にして、そこで展覧会をします。ただ普通の学術的な論文だとか、学者の論文とは比重が違って、やはり作品がメインなので、論文といっても私が書いたのは120枚ぐらいなんです。

・・・制作したものを文章にするということは、それは相当自分の作品の長所も短所もわかってないとできないですよね。

 そうですね。口頭諮問の場で、何が今のところ解決できてない問題なのかということを、自分で把握できていないと駄目なんです。それを求められるし、私もそれが大事だと思っています。

・・・武蔵野美術大学では油絵を描いてらしたんですよね。布を使おうと思われたきっかけを教えてください。

 武蔵美に入るのには、元々予備校でたくさん油絵を描いてから受験するんです。入学した時は、西洋のルネッサンス絵画だとか、空間の表現にあこがれて、自分も、そういった絵を描きたいと漠然と思って、3年生の終わりぐらいまではもりもりと大きな油絵を描いていました。
結局絵画表現というのは、四角い画面の中で、色の差によって、何かを表すということなんですけど・・・それが自分と作品との間に、距離が生じたというか。 遠い感じがして、・・・すごく窮屈に感じはじめたんです。
ちょうどその頃、武蔵美の先生に 「青い色を塗れば青い絵 になる。それでいいのか? 何をもって自分の絵だというのかを、今の時代はいえなければいけない」といわれたことがありました。
その言葉は誰も否定できない言葉で、確かにそうだなと思ったんです。

・・・なるほど。

 織物の解体よりも、刺繍が先でした。この “go home” という作品は、ペインティングから刺繍にいった一番最初の作品なんです。
97年の制作なので8年前ですね。3年生の時に作りました。 これは元々自分で作った木枠にキャンバスを張って、絵を描こうかなと思って用意したものなんですが、そこに太い布団針を刺して毛糸で刺繍していったんです。
これはドット状になっているんですよ。1本裏から刺して、表に戻ってきて1点、その1本1本が裏に垂れ下がっている作品なんです。

 何らかのシステムによって、形とか、或いは絵画というものの位置だとか、見方だとか 、そういうものが出来上がってきたと思うんですね。ですから、1点1点で、花の形が出来上がるシステムみたいなものを同時に見せたかったんです。
表の1面だけで 「何かを表現しています」 というのではなくて、その形や形態が生まれてくるシステムみたいなものを同時に見せたかったということなんです。壁との距離が1メートル50ぐらい開けてあるので、 最初にこの作品を見た方は、裏に回り込んでも見える。非常に装置的だとか、図式的だといわれましたけど、自分にとっては初めての作品なので、必要な作品だったと思っているんです。

・・・ “go home” というタイトルはおもしろいですね。

 行って帰ってくるという行為自体も、作るプロセス自体もその作業の繰り返し、行って 帰る。行って帰るという。

・・・この作品を拝見していて、突然思い出したのですが、戦争中に千人針 (1枚の布に、千人の女性が赤い糸で1針ずつ縫い、千個の縫い玉を作った布。出征兵士の武運長久を祈って贈った) というのがありましたよね。
へんなたとえかも知れないけども、人の行為というのは、積み重ねることによって何か見えてくるような気がするんです。千人針は目的があってしたことだから、作品とは違うけれども・・・。

 いつも動いている時間みたいなものが定着できるのが刺繍の魅力だと思っています。前述の論文を書く過程で、いろんな本から得た知識なんですが、ヨーロッパのスラブ地方の刺繍には、洋服のえりだとか、袖口だとか、裾だとかに赤い刺繍を施す習慣があるらしいんです。
 それは悪魔や病魔が入り込まないようにというおまじないの役目をしていたらしくて、刺繍というのは1針1針縫いつける。その時間が刻まれる表現だと思うんです。刺繍の止めている玉結びをプツンと解いてしまうと、途端に素材に帰ってしまう。そのもろさと、人間が「どうぞ身体が無事でありますように」と祈るテンションとが表現として出てきた。
もちろん絵画もそういう形から生まれたということもあると思うんですが、刺繍という方法は、織物もそうなんですけど、出来上がったものと素材とのゆらぎというか、非常にもろいところで、ぎりぎり出来上がっているという感じ・・すごく人の感情を印として止めておくということとピッタリ重なるというか。とても魅力的な表現方法だなと思っているんです。

・・・98年の作品は、これは木に直接刺繍糸を貼り付けたんですか。

 武蔵野美術大学に桜並木があるんですけど、すごく立派な桜並木で、いつもパンを買いに行く時にそこを通るんですが、そこですごいエネルギーを感じたんです。
以前学校の教科書に染色家の志村ふくみさんの 「桜の木の皮はあんなに黒くてゴツゴツしているのに、煮出すとピンク色になる。花が咲くのは春だけしか見えないけれども、桜がもっている色というのは、潜在しているんですよ」 その言葉がすごく印象に残っているんです。
中に潜在しているものは、見えないけれども潜在している。それは先程の縫う時間であったりもすると思うんですけど、時間というのはどうしても見ることができない。 “じ・か・ん” という間にも時間が動いてしまっているのでどうしてもとらえきれない。つかまえられない時間というものを考えた時に、過去の過ぎてしまった時間に惹かれながら刺繍をしているわけなんです。
この幹の作品は、中に潜在しているものを表現できないかと思って・・・材料ににかわを使ったのは自然のものですから、雨で流れ落ちても害はないだろうと思ったからです。枝を切り落とした部分・・・切り落とすと木が盛り上がる部分があるじゃないですか。それで “桜の木のかさぶた” というタイトルなんです。

・・・タイトルがすごくおもしろいですね。

 その当時は素直につけてますね。
今は変なことをいろいろ勉強しちゃったので、なかなかいいタイトルがつけられないんですよ(笑)。

・・・2000年以降の作品になると糸が抜き出されてますよね。これはどういう?

 織り込まれている糸、たとえばこの作品ならば、赤い糸だけを抽出しています。

・・・どうやって抽出するんですか。

 それは長くて5センチ単位ぐらいを針で引っ張って、もちろん無理に引っ張ると切れますから、布をちょっとづつ伸ばして、パンツのゴムを入れるような感覚で・・・。

・・・赤い色とか白い色とかを抜こうと思うのはどういう感じで決めるんですか。


INAX GALLERY 2

 それはイメージですね。作品の組み立てを考える時に、たとえば白い糸を抜き出す時に 、これだけ毒々しい赤茶色の布から、清水のように流れ落ちるイメージを。この時は、塊として量がすごく必要なんだというのが最初にあったので、それには4メートル分の糸が必要だったんです。

・・・2000年のから2003年にかけては、作品がグレードアップしたというか1つの形が出てきますよね。それまでは平面的なスクウェアな作品だったのに・・・。

 それまでは形態を決定することに対してすごく無自覚だったと思うんです。たとえばなぜ矩形でなければいけないのかとか、それにどれをとっても壁に依存していて、しかも、四角であるという形態が非常に多い。
それは友達の意見で気づいた部分もありますし、自分で思い直した部分もあるんですけど、自分が元々絵画を描いていて、そのくせというか、作品への偏見というか。そういうところから無自覚にきているんだろうというのはありました。それで段々スクウェアなものは避けてきたという感じはあります。


・・・壁に依存するといってらしたけど、2003年には、段々作品が空間を意識しているような気配を感じますね。ペインティングも一緒に描いているですね。同時に?

 平行して描いているんです。画面を乾かす時間に、布を買いに行ったりとか(笑)。自分としてはファブリックだけでズーとどこまでもいけるのかというイメージがあまりないんですね。やはり両方やっていかなければいけないと思っています。

・・・なるほど。それで話を戻しますが、2004年になると、すごく身体性をおびてきているような、纏(まとう)ということを意識されているような気がするんですけど・・・。

 わりとよくそれをいわれるんですが、私としては人のフォルムを引用しようとかいう意識は全くないんですよ。ある雑誌にドレスをまとった後ろ姿のようだと書いていただいたこともありますが、自分としては意識してないんです。むしろ人のフォルムというよりは、内臓みたいなものが出てきてしまったという。そういう意味の方がしっくり来るんですけど・・・。
今回のINAXの作品も、元々1枚の布の真ん中だけ、組織を全部解体してそれがダーと流れてしまう感じです。内蔵は私たちのものでありながら絶対見えないじゃないですか。そういうものがはみ出してきてしまったというようなイメージというのはあるんですよ。見る方がイメージを自由に構築するのは、私は一向に構わないし・・・でも自分の中で人体のフォルムを引用することで、何かを表そうというような意図はないですね。


手塚愛子 展 - 糸の浮橋 織のきざはし-  2005. 4/1 - 26
INAX GALLERY 2 http://www.inax.co.jp/Culture/top/2_tokyo.html

・・・この個展の作品は穿った見方だけれども、大きな歴史の川の流れのようなイメージを感じました。
このイメージを言葉に置き換えるとどういう言葉を選びますか?

 言葉は決していい当てられないから、これは人の受け売りなんですが、でも本当にそうだと思ったのは、石ってなんですかと聞いたら、「それは岩の小さなもの」、岩ってなんですかと聞いたら、「石の大きなものだ」 といった(笑)。
 言葉というのは、関係によって成り立っているものだから、その本質みたいなものはいい当てられないし、作品の印象を言葉にするのは千差万別だと思います。ただ、とてもゆったりした感じ、緊密におられてしまって外の何物も入り込めないようなしっかりした組織というすでに出来上がって織られてしまったものが、ゆったりした時間の中に、もう1回逆行して帰って行く。そういう緩んだイメージというのが私の中にあるので、それがどんな言葉に置き換えられてもその感じをもって帰っていただけたら、私としては共感してもらったという感じがするんですね。
言葉は何でもいいんですが、出来上がって生き苦しいような感じのものが、ちょっと稚拙な表現ですが、もう1回優しさみたいなところに帰っていく。そういう気持ちをもって帰ってもらえれば・・・。

 自分の作品は垂れ下がっていたり、床に流れていたりとか、重力に対して抵抗しないというか、そういう形態が多いんです。それはわざとそうしているわけではないんですけど、形態を決定する時に、こうしようと思う形態がそうなってしまうんです。
今回は11メートル分の織物の中から、10メートル分を解体する作品、もちろんダーと床に寝かせたりとか、ひだを作ってグチャグチャにする形態も考えられたんですけど、あぁいった感じで、たるんでゆったりと・・・。

・・・伸びをした時の気持ちいいなぁという感覚に似てますね。

 自分がいった優しさというのはちょっと違うように感じるんですけどね。 何っていったらいいのかな。少し予定調和的なことからずれてしまうような出来事というか、ふっと力が緩んだところというか。自分の作品は実際に作品の中で起こっていることがすごく大事で。

・・・起こっていることというのは?

 たとえば伸びをして緩んだ感じとかたるんだ感じというのを、絵に描くこともできるわけですよね。絵に描いてそれを表現することもできるんだけれども、実際に刺繍の裏側を見せたりとか、実際に作品のもっている成り立ちを体現しているというか、もちろん私は、形態を決定したり布を選択しているけれども、その行動は明らかですよね。布を買ってきて、横糸を抜いたのは明らかだから(笑)。

・・・そのお話から、先日のVOCA展で話された 「既製品の織物を使って、どのように展開していくのかということが、今の自分の制作においての問題だと思っています」 という言葉を思い出しました。

 これは、VOCA展で気づいたのではなく、少し前から考えていたことです。
たとえば自分で織った布を解くのか、大事な人が縫った布を解くのか、或いはものすごく高い絨毯を解くのか、意味は全部違ってくるわけですよね。

 今までの作品は、西洋のブルジョワが使うような高貴に見えるような布、私が作品に用いているのは、そのような布の偽物で、大量生産されたフェイクなんです。それを解体して解きほぐしていく、ここに使ったゴブラン織りは、知らなければゴブラン家が織った織物として見てしまう。
でも解体するとこんなにケミカルでチープでビビットな色の6色で織られている。その成り立ちを見せたという作品なんですけど、それはそれで自分はわかってやっていたことなんですが、これからはもう一歩展開して、何をほぐして、何を織り直すのかということを突っ込んで考えないと、次の作品は難しいなと思っているんです。

 たとえば今回の作品は今までの中で1番大きいんですけど、ある意味、このシリーズは、私はこれが最後の一歩だと思っていて、これ以上、たとえば10メートルやったから今度は100メートルだというわけにはいかない(笑)。これを続けるとそういうスケールの問題になってしまうんだろうと思うんです。でもそうではなくて、作品を展開するのは、もう少し内容や意味的に突っ込んでいかなければいけない。
今までこれをやってきたのは自分なりに意味があって、わかってやってきたことだけれども、今度は何を解体して何を織り直すのかというのは、次の展開の鍵だなと思っています。たとえば織り直すにしても、どんなものを織り直すのか、意味的なことが掴めてないと形態が生まれて来ないと思うんです。
今回のようなざっくりとした手織りの質感のまま、「織り直したんですか。すごいですねぇ」 といわれて終わるのか、もっとぐさっと織り直されていて、そこに図像的なものが現れてくるのか、或いは織り方に意味を込めるのか、それはいろいろな可能性があると思うんですけど、でも今はまだ具体的なことを申し上げられないんです。

・・・なるほど。今回の個展ではこの刺繍の作品が新作なんですよね。

 この刺繍の作品は、表も裏もありません。どちらも表でどちらも裏というか。自分でラフに引いた線でそれを境界にして反転しているんです。この模様は正倉院の古代布の文様を写しました。よく使う図柄なのですが、この模様を見た時に、ビビビとあるテンションを感じてしまって・・・。
 この柄は権力を保持するために生まれてきたところがあると思うんですけど、やはりこういう力強くて、華やかで目立つ文様の裏には、どうしてもそういうものによって存在を確かめておきたい、人間のポッカリとした空白みたいなものが常にあると思うんです 。そういうゆらぎが感じられた模様を、図像が成立していく過程と、それを支えているプロセスみたいなものを、同一平面上で起こすことによって想像させるというか。
 今までは表裏という図式的な刺繍を見せるという形をとっていたんですが、あるときふっとそれを表と裏という風に決めてなくてもいいのではないか。表の中に縫い目が出てきてしまって、どっちが裏でもどっちが表でもないという作品ができたら、それはおもしろいんじゃないかと。
 今回初めての試みなんですけど、これをもっと大きな帯状の単位で、表と裏が常に反転していくような作品ができれば、ちょっとおもしろいじゃないかと思っているんです。


・・・最後にこれからは?

 作品と同じ空気を吸いたいというか。
作品が作品としての位置づけによって作品を見るのではなくて、もちろん作品を見に行く時に、そこに作品があるのがわかっていて見に行くわけじゃないですか。けれどもスッと同じ空気を吸うような体験をしたいと、刺繍をはじめた頃からずっと思っているんですよ。
優れた絵画というのは、そういう体験をさせてくれるものだし、ふっと絵画空間の中に自分が入ってしまうような、或いは絵画が私の方に下りてくるというか。形式的な関係ではなくて同じ時間を共有してしまうような力が美術にはあるし、それを目指したいと思っているんです。
でも刺繍の裏表を見せるのは気をつけないとトリッキーな感じを与えてしまうので、トリックアートのような感じにならないように気をつけて、でも、ハッとした驚きがあるような作品、それは毎回毎回できるわけではないけれども、そういう作品を作りたいなというのはありますね 。

これからもできるだけ作品を作り続けたいと思います。自分が見たいものと、作りたいものを作って、死のうと思ってますから(笑)。

・・・それは私も同じです。いいたいことをいって死のうと思ってるんです(笑)。次回の展覧会の予定は?

 6月に、京都のパレスサイドホテルで、ホテルの部屋に現代美術の作品を展示する企画に参加します。

どうもありがとうございました。

 手塚さんは1976年生まれ、今年29歳になるんですね。まだまだ未来に向かって、たくさんの数の作品が作れますよね。それを考えると、オサルスに残された時間は、多くてあと20年たらず、いいたいことをいえるのもそんなに多くないんですよ。
先日養老猛司さんの本を読んでいたら、千日修行の話が出ていて、
「修行というのは、やった自分こそが作品じゃありませんか。千日行なんて、山の中を歩くこのこと自体は、世の中の役の立つわけではないでしょう。それをやったらその人にとって意味があるということです」
そう。修行だと思って1000人に話を聞けるその日までがんばるぞ!
あと865人かぁ。生きてるかなぁ〜。

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