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携帯オサルスのおすすめランチ ランチdeチュその56

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日替わり定食
鯵の叩き、鳥豆腐・お新香付き 1000円

大衆割烹 三州屋銀座店
東京都中央区銀座2-3-4 銀座並木通り TEL 03-3564-2758

 オサルスは、ホントに “フランク・O. ザッパ・オサルス” (由来は『ランチdeチュ』2002.6.12 篇を見てね。) しかしどんどん長いネームになるなあ。
去年ご紹介した大衆割烹の三州屋さんは(お薦めは戸村さんと兒嶋さん)、新橋・銀座に何件もお店がある(ご家族で経営)のを知らないで、確かめもせず銀座一丁目のお店が兒嶋さんのお薦めだと思い込んでいたのです。
実は兒嶋さんのお薦めは並木通りの三州屋さん。2001年3月の『ランチdeチュ』で、魚の苦手なオサルスは刺身定食を注文し、
『なめこ汁は美味しかったけど、お刺身(まぐろ)は平均的な感じだし、いささか期待はずれかな。が、本音。まあ味覚は千差万別だから・・・。』
と、思った記憶が、でもこれは完全な思い込み・・。

 兒嶋さんのお薦めの日替わり定食『鯵の叩き、鳥豆腐・お新香付き(1000円)』は、とても美味しい! 程よく脂ののった鯵、小骨が入っているとそれだけで食べれなくなるのに全然OK! ホントに目から鱗とはよく言ったものです。

大衆割烹だから、出てくるスピードも半端じゃない。座ったと思ったらもう料理が目の前に・・・。壁に掛かったびっしりのメニューも夜だけでくリアルタイムに everything OKとは、流石にプロですよね。
オサルスもこれから人の話をよく聞いて、妙な思い込みはしないよう気をつけなきゃ。と、言ったところで信じる人は居ないよね。トホホホ・・・。

さて今回のお話は兒嶋画廊の兒嶋さん、日本洋画界の巨匠、兒嶋善三郎のお孫さんです。
こうご紹介すると何となく固そうなイメージがありますが、いや〜。人は見かけによらない・・・アクティヴな画商さんなんです。見て下さいこの勇姿。自転車に乗って国分寺から銀座までご出勤、スケボーにも挑戦して(この裏側の富士山は自筆)・・・。

スケボーは危なくないんですか?

 「楽しいですよ。転ぶし痛いけど・・。いつステンといくか解らないから緊張感維持の為にやってます。
まあ! 変身願望っていうか、全然違う自分になって町の中を疾走していく、そういう快感はありますね。スケボーだと、顔を見て何でオジンがなんてね。でも、一緒に走っていると結構色々教えてくれたり友達になれたりしますよ・・・」

ホントに見かけで判断しちゃいけないですね。すみません。では、美術に関わる切っ掛けは・・・・。

 「最初は絵を描きたいと、でもデッサン力がなくてブルータス(石膏像)なんか描くとブチャットつぶれたりして・・でも下手なんだけど好きですね。
どちらかといえば立体とか焼き物とか三次元のデッサンは得意かな。二次元はちょっとね。僕が二十歳くらいの当時は叔父が日本橋画廊をやっていて、修行というか居候というか・・使ってもらいました」

叔父さんは画商さんなんですか。

 「芸大を出て、東宝の舞台美術をしていたり。それから画商になったんです。祖父の善三郎も日動やなんかを見ていて、これからの時代はそういう商売がいいんじゃないかと・・・。それで次男にやらせて、当時は池田満寿夫などの版画を扱ってまして面白かったですね。
その後、新人ブームになると具象的な 絵ばかりになってきて・・・そう宮崎進も扱ってましたね。すぐ近くに南画廊があって結構見に行って、パーティーに顔を出したり・・、1967〜70年の間は南画廊が一番活躍していた時期です。三木富雄・加納光於・ジャスパージョーンズなどの展覧会をしてました」

その頃は景気は良かったんですか。

「ん〜。一般の人が買うよりも特別な決まったコレクターしかいなかったかな。当時池田満寿夫は三万円位、エディションは全部売れました・・。当時は金持ちは版画なんか買わなかった、棟方志功ですらね。そういう人達は外国のルノアールやルオーを、日本人では劉生や佐伯を買うんですよ」

唐突ですが、1970年はちょうど大阪万博ですね。出てらしたとお聞きしましたが・・。

 「1970年の万博で東京画廊で展覧会をしていた吉村益信(ネオダダ)さんが、(株)貫通を作って・・・若い頃は現代美術に興味があって少し顔を突っ込みました。繊維館の仕事で万博で初めて現代美術が金になったというか企業と美術が結びついたんです」

貫通っていうのは何ですか?

「電通・日通・貫通・・・。貫き通すと書くんです。今はもうないです。アーティストが会社組織としてアートワークをやった走りです」

どんなアーティストが参加してたんですか。

「吉村益信・小林はくどう・浜田剛二・四ツ谷シモンなどです」

え! それで会社が万博に出展したんですか。

 「万博の中の仕事(繊維館)を請け負ったんです。プランを出してオブジェを作るとか、色彩計画をやるとか、あとお祭り広場のイベントも請け負って・・、内田裕也のフラワートラベリングバンドと・・・当時はイージーライダーが流行で、オートバイとロックのイベントを企画したんですよ。
お祭り広場の電光掲示板にFUCKなんて言葉を大ピラに出して・・・。当時はそんな言葉を知る人が少なかったからね。その言葉は70年代の日本人は殆ど知らなかったんですよ。ハハハ・・・」

結構儲かったんですか。

「儲かりましたけど終わった後は企業は離れていって・・。その後、アートコンサルタントとしてアプローチしても断られて・・。赤札やアブアブの改装をしたりマネキンを作ったり・・売り込みも色々したようですが、自然消滅してしまって・・・。 皆それぞれ作家に還っていったんです。僕は途中から参加したけど会社は三年位しか続かなかったかな」

フラワートラベリングバンドとはジョイントされたんですか。

 「いや。助監督というか進行係みたいなもので・・・一緒にはしゃいでました。当時は作家が“貫通”にいっぱい出入りしていたし、東京画廊の山本さんもアルバイトにきてましたね」

“貫通” に関わって、やはり現代美術は商売にならないと思われましたか?

「そうですね。現代美術を売るっていうか、商品として単体で売るよりも企業やイベントとくっついてプロジェクトを売る。その中に作品を入れ込んでいくというような・・今でも建築なんかはそうですよね。
その当時現代美術を売っているのは南画廊・東京画廊・南天子画廊と大体三軒位、その後の十五年位で沢山増えましたけど、その頃はそこで扱っている作家が現代美術の作家だったんです。そこに関わらない人は作品を売るレベルではない。あとは貸画廊を借りてやるだけです」

売れる、売れない・・そういう意味で美術に対してどう思われますか。

「売れなきゃ作家が喰えない訳だし、一つのプロジェクトで一緒に仕事をしていくのはいい事です。そうじゃないとコレクター好みの作品しか売れないじゃないですか。
個人のコレクターの趣味的な・・大きさにしても何にしてもそうでしょ。様々な人にみてもらう事は勉強になりますよ。でもコンセプチュアルアートはやっぱり売れないし、何故か、より観念的に走ってしまったのが現実です」

では、現代美術はお好きですか。

「そう好きです。同時代の人と生きていくのは画商の一番の仕事。ただ今は中々相手がいないというか・・。いれば採算が合わなくてもやっていきたいですね。買い取ってまでは無理だけれど・・・」

ちょっと話を整理しますが、今の兒嶋画廊として独立されたのは?

 「 “貫通” に関わって一回叔父の所から出て、又終わって頭下げて戻ったんです。暫くしてヨーロッパとアメリカに勉強に四ヶ月行きました。コンテンポラリーとか古典を見たりして、ニューヨークで河原温さんにも会いました。I metシリーズに関わった事も・・。
それから日本に戻って、まあ一応叔父の元で十年修行しまして独立して、その後色々な画廊から作品を借りて二年位行商のツアーに出て・・・何と言っても“兒嶋善三郎”の名前は大きかったですね。死んで虎は皮を残すというか・・・。祖父は上等な皮を残してくれました。
それから32才の時に青山に店を出して一番最初は三木富雄の展覧会を・・。当時は売れなかったな。青山では18年間・・。現代美術系のものとか版画などを扱ってました。その頃は善三郎の絵は高かったしね。今は全体に絵の値段が下がってしまって、画商も経費をだすのは大変です。
でも大震災でも戦争中でも絵描きも画商もやってきた訳だから・・・。それを思えば今はいい方ですよ。お客さんには、
『まだこんなの好況のうちだよ。街中をみればベンツやポルシェがごろごろ駐車場に置いてあるだろ、何処が不景気なんだ』
と言われます」

それはそうですね。ところで34年間美術に関わってこられてご自分の想いを一言。

 「やっぱり好きな事だけれど・・。商売としては全然儲からなかったし、資産を作ったというよりは食べてこれたというか。事業になるような仕事ではないですね。事業にするのならば従業員をたくさん雇って誰でも解るような絵を扱っていかなければならないし、それは僕が遣りたい事ではないしね。
反省点はこの業界で結局お客さんを育ててこなかったという事。
今はオークションがあって買っている人は多いけど、コレクターは前の蓄積が生かされていく訳ではないし、石橋美術館やブリジストン美術館、大原美術館、松方コレクションとかを見て・・
『ヨシッ、俺もこういう美術館を作るんだ』
と、思ってくれればいいけれど・・。凄い美術館を作るような、スケールの大きいビジョンは希薄ですね。又会社が金を持っていても個人では税金が厳しいから、そんな時代でもないのかな」

最後に生き方のモットーをお聞かせ下さい。

 「作家と出会い作家と共に生きていく事が、まったくの基本ですね。ただ、作品が売れていかないと、ある意味、人の人生を巻き込んでしまう訳だから、
『仕事止めて絵一本でいけよ』
と言っても、
『じゃあ! 飯はどうするんですか』
と、実際無名の人の作品は買ってくれませんよ。カリスマ画廊主なら話は別かもしれないけれど、作家は出会いだから募集する訳にはいかないし、ただ、これから一軒の画廊が昔のように契約して売り出すのは不可能でしょう。一人でレコード会社をやるようなものです。全国をキャンペーンしてCD売るのも大変だしね。
一軒の画商がコツコツ地味にやっても駄目なんです。結局は作家の持っているポテンシャリティーにつきる訳だけれど。魅力がなければ外国だろうが何処だろうが売れないわけですから・・。そういう人に巡りあえれば・・・。でもそうなると、画廊がマネージメントして稼いでいく構図になるか、タレント事務所みたいになるのか・・。
もう昔のような形から変わり初めてます。まあ! 人間の世界はドロドロしているから簡単にはいかないけれど・・・・。
ただ一言いえる事は、美術の原点は見た時の感動だと思います。それが無いのは現代美術であろうとなかろうと偽者でしょう。そんなもの、そんじょそこらにある訳ではないし、それだけで飯が食えるわけではないから、色んな作品を扱って、又、色んなタイプの人がいるから、なんとかこの業界食っていける訳ですからね。
まさに“一期一会”。ある作家の一番いい時期に一緒に歩ける事で満足すべきだろうと思います。育てたとか、売り出してやった、とかいうのは尊大ですよ」

どうもありがとうございました。

 お会いした日は、梅雨寒の小雨が降りしきる日だったんですが、自転車をご自宅より車で運んで頂いて、おまけに着替えまでして頂き、誠にありがとうございました。

  最後の最後に、兒嶋さん、何故自転車に乗るのですか? とお聞きすると、
「子供に還れることと色々な発見があるからかな。偶には危険な事もあるけどね」
ですって・・・。

そういえば、うちのウェッブマスターもお天気の日は、作業場の往復約10キロ歩いています。歩いていると何かしらアイデアが浮かぶのだそうです。どんなアイデアなのかは解りませんが、もう少し暮らしが楽になるようなアイデアを思いついてもらいたいものです。
そういう事は浮かばないんだよねえ。あの人は・・・・・。

兒嶋画廊 http://kgs-tokyo.jp/kojima.htm

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