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携帯オサルスのおすすめランチ ランチdeチュその88

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ビーフカレー 700円

日比谷 松本楼
東京都千代田区日比谷公園1-2 TEL 03-3503-1451

http://www.matsumotoro.co.jp

『緑あふれる森のレストランへようこそ』のキャッチコピーを読んで、新緑の季節にテラスガーデンでのランチもいいな〜。と、10円カレーでお馴染みの日比谷 松本楼へ行って来ました。樹齢400年の首かけ銀杏の木の下は・・・薫風の心地よさと青葉のそよぎ・・・新緑がbeautihul。ん〜。文学的素養がないので文章よりは写真を見てね。

  今日は美術評論家の千葉成夫さんとご一緒の『ランチdeチユ』。松本楼といえばやはりカレーが有名。 どんな味がするのか楽しみですね。 フランス仕込みのシェフが腕によりをかけて作ったカレーに、フランスに留学経験のある千葉さんに挑戦して頂きました。

松本楼の歴史は。
明治36年6月にオープン。今年で100周年を迎えます。当時はモボやモガの間では松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲むのがハイカラな習慣だったとか。
ロビーに展示されている孫文の奥様の宋慶齢が弾いていた国産(ヤマハ)ピアノ第1号に歴史の重みを感じます。建物は残念ながら昭和46年秋、沖縄返還協定の折過激派による放火で全焼。 関東大震災以来、2度目の炎上事件を経て昭和48年に再オープン。 その時の感謝の心をこめた記念行事として始まったのが10円カレーチャリティーセールだそうです。

 先日のNICAFで【徘徊巷】を年に三回刊行されているというお話をお聞きして、パラパラと中を拝見。ん!『風が変わった、どこへ向かって?』(連載第九回 徘徊巷から) U〜ン?。風は何処へ向かうのかなあ〜。
先の事は風まかせのオサルスなのでピントハズレの質問はご容赦下さいね。

お待たせしました。ビーフカレー(700円)でございます。

・・・早いな〜。殆どお待たせしませんよ。

こちらのカレーは昨今のエスニックでスパイシーな味というよりも、洋食屋さんのカレーという感じかな・・・ではスパイスは何と問われれば? 勿論伝統を少々でしょ。辛さも程ほどで食べやすい。福神漬けが添えられているのも昔風。食べながらバードウォチングが出来るのも魅力です。

・・・お味は如何でしょうか?

「オーソドックスだけれどハイカラな味ですね」

・・・なるほど。上手い表現ですね〜。

・・・ところで何故評論家になろうと思われたのですか?

 「高校生の終わり頃かな・・・絵を描くのが好きだった事から出発して、描きたい気持ちはありましたが自作では才能がないしやっていけなと思って・・・唯、一っ飛びに評論にいった訳ではなくて、当時は何となく文学青年でしたので美術について見たり考えたりするのがいいなと漠然と思ってその道を選んだんです。それから美術の歴史を勉強し始めました。
でも、自分が美術を好きだから余計美術を完全に過去になった歴史として扱うのもつまらないという思いがあって、美術史を段々勉強していく内に結局専門としては新しい方向を選んだんです」

・・・現代美術を選ばれた。

「ええ、今動いている美術、或いは近過去の美術はまだ歴史になってないというか・・・鉄がまだ冷えていない部分が沢山ある。実証的な仕事ならば学問で在り得る。けれど冷えてもいない鉄を扱うのは自分がどういう風に考えるのかどう解釈するのかという事だろうと・・・。
その時美術史と美術批評はどう違うのかを含めて色々考えました。でも根本的には凄く単純な事でね。自分がそれについてどう思うかという事を書くとすればそれは批評であると、それで僕は自分で明確に答えを分けて、もし、美術史学者になるのであれば実証的な仕事に限るべきである。
そうでなければどんな時代を扱っても本当は解釈というのは批評なんだからという見極めを自分なりにつけて、偶々僕が選んだのは現代ですから、それについて書こうと」

・・・現代美術を言葉で表すとすると・・・。

「凄く難しい問題ですね。まず受け取る側にそういうものに対する潜在的な欲求とか、モチベーションがないと難しいですね。
凄く偏見や思い込みがありますから、まずとり合えず言葉で一般の人達に対するイントロダクションを繰り返しする事、僕達のような立場の人間がなるべく一般の人に判るように、現代美術の根本が一般の人達が考えている美術とどう違うのか、それは歴史的にどの段階でどうなったからこうなってきたのかと・・・ある程度ポイントを整理して話す事がどうしても必要なんだと思いますね。
よく言われている事ですが、芸術は感覚なんだからまず見ればいいと、それは半分そうですが、枠組みが無ければ人は理解できない、枠組みが必要なんですよ。それにはやはり、現代美術の歴史と状況の二つの点を可能な限り的確に判りやすく話す事が重要なんです。
自分で言うのも何ですが、それを的確に言える人間は以外といないと思います」

・・・現代美術は閉塞的過ぎて、入り込めない部分があるし、評論は難しくてどうしても読めないんですよ。何故あんなに難しく書かなければいけないんですか?

 「まず理由は二つありますね。自分を含めて擁護する訳ではないですが、現代美術がぶつかっている問題は非常に難しいんです。ですからそう簡単にはならないのが一つ。もう一つの理由は、もう少し判りやすい言葉で書けばいいものを論ずる側の能力そのものが追いついていないという事もある。
書く立場の人間が、現代美術が本当に判っていて自分の中でキチンと考えている人ならばそれなりに判りやすく書いたり話したり出来るはずです。
それが出来ないという事は論者自信に問題があると思いますね。但し、現代美術の最先端でぶつかっている問題は、言葉使いは易しくとも論ずるとなると限度があると思いますよ」

・・・【徘徊巷】を出された動機をお聞かせ下さい。

「ある意味普通の人には訳の判らないと言われている現代美術を、言葉でフォローする広い意味でのジャーナリズムというかメディアが限られているからですね。
要するに現代美術の批評をまともに掲載する雑誌が殆どないと思っているんです。例えば現代美術専門の美術雑誌で、昔からあるのは美術手帳だけですね。あの雑誌もその時代、時代の編集長の采配いかんで変遷して来た訳です。
唯、BTもここ5-6年、90年代後半から明確にサブカルチャー路線に肩入れしてまともな評論を極一部の批評家を除いて載せなくなってきた。まあ、それはそれでプライベートな美術雑誌だからかまわないんですが。
評論を書く側からすれば発表する場所が無いという事で追い詰められてきた訳です。それで僕は単純に発想して自分で発表媒体を作ればいいんだと、自分で作るしかないというつもりで始めました」

・・・部数はどの位出されているんですか。

「部数は500部です。基本的には定期購読システムと、それにナディフとかいくつかの画廊に置いてもらっています。理想的には定期購読システムで採算が取れればと思っていますが、執筆者が僕一人の一人同人誌のつもりでおりますので、ある程度持ち出しは覚悟してますよ。
最終的には持ち出しでも構わない積りです。発行は1年に三号出そうと、今度は5月に出ます。一年ちょっと御付きあいしてもらうと2000円になります。送料はこちらで負担しますよ。
変な話ですが、半ば意図的にですが初めの内あまり宣伝してないんです。一人静かに滑り出せばいいと・・・。宣伝するには労力を使うじゃないですかそれが馬鹿らしい。こちらのポジションとしては読んでくれる人が読んでくれればいいと・・・」

・・・やはり発表は活字媒体でなければ駄目ですか?

「そうですね。僕はパソコンを使う習慣がないから、文字を書くとか読むとか出来ないんです。結局どちらにしてもプリントアウトして読んでしまう。
文章を書く場合でも紙の上にインクじゃなければ書けない・・・ずっとそういう習慣になっているから変えられないですね。それに僕には何処かで活字媒体が残るというか長持ちするという考え方があるんです。
【徘徊巷】は500部ですが、色々な人に散らばる事で物として残るのではないか、又読みたいと関心のある人だけに読んでもらいたいんです。
こういう言い方はおこがましいですが、『素人の介入は困るよと。』そういう自分なりの享受があって、例えばメルマガは垂れ流し的で整理されてないものを移動させているだけでしょ、それはそれで意味があるかもしれないけれど、僕は文字表現、文学表現は違うだろうと少なくとも僕の立場じゃないと思っているので」

・・・話を少し戻しますが、今現代美術は危機的状況だと何かで読みましたが、危機的な状況とはどういう状況なんですか?

 「現代美術が危機的状況にあるのではなく、美術そのものがそうなんです。僕が何故現代美術のものを集中的に書いているかというと、他のものが面白くないからです。
今、何が美術の作品活動として一番面白いかと言えば僕の考えでは現代美術になるんです。
では、現代美術の人達が何をやっているかと言えば、今美術全体が直面しているどうしたら美術がこのあと新しいものを生み出しいけるのかという一番ギリギリの所で何とかしようとする姿です。
今、困難な事は美術全体がいきずまっている事です。何が困難かという事の根本は新しいものが生み出せるかどうかという事なんです」

・・・新しいものとは見なければ判らない訳で、作品本意になってきますよね。じゃ新しいものとは何なんでしょう。模索しながらしか判らないのでしょうか。

「それが一番問題で、とり合えず先が見えない。そうとうドン詰まりに来ている事だけは感触として判る」

・・・ドン詰まりとは?

「ある意味20世紀が終わるまで、人類は美術に関してあらゆる事をやってきた。今出てくる若い人達の作品を見ていると、その人は気がつかないかもしれないけれども、これは前にあったものだというものばっかり・・・もう少し違うものを見たい。人間は贅沢なもので常に新しいものでなければ我慢できない」

・・・それは凄く判ります。見たい欲求はあります。

「唯、その新しいものというのが、前より新しいものというのではなくて、本質的なものが新しいものだと思うんです。だから僕にはジャンルの事はあまり問題ではないんです。
例えば絵画という形式が駄目だというのではなく、絵画で一向にかまわないと思いますね。オーソドックスな油絵で描いても本質的な絵を描いてくれればそれで新しいんです。
今の時代は自分達にとっての本質的な所まで人間がいけない、探り当てられないというのが非常に問題ですね。
結局美術の世界だけではなくて、日本を含めた世界がぶつかっている時代状況そのものに一つは原因があってその波が凄く強いものだから、我々は中々美術のなかだけで自足している訳にはいかないし、外側からの圧迫材料が迫っていて、でもこういうものと何とか渡りあいながら、自分の本質的なものを見つけていかなけりゃいけないそういう段階だと思うんです」

・・・なるほど。

 「だから、時代が大きく変わっていくというのは、過去の歴史を振り返ると判りますが、例えば来年とか再来年のスパンではなくて、それ位大きな転換期にいると思うんです。
近代が終わりの方に来ている。もう感覚的には近代というものでは満足できないし、近代と違う所に足が入りかけている。けれどそれを上手く言葉に出来ない、表現としては表せない、近代から次の時代へというそういう段階だと思います。
西洋で言えば中世から近代に移った時期、西洋は中世末期からバロックにかけて、大体200年以上かけて近代へ移ったんです。だから僕は時間が掛かるのはやむをえないし、掛かるものだと思います」

・・・生きているうちには見れませんね。残念だな〜。

「それはしょうがない、そういうもんでしょ」

・・・又、少し話を変えますが、韓国の作家をかなり取り上げていらっしゃいますが、韓国の作家の作品に惹かれる理由はなんでしょうか?

「一番の理由は日本の・・・自分達自身の美術を考える場合に非常に参考になる。自分達自身の姿を映して見る鏡としては韓国の美術は稀有なものだと思うんです。
例えば僕達は明治以降西ヨーロッパ、西洋の美術に自分達を写して、西洋美術を鏡としてきた訳です。それが重要じゃないとはいいませんし、それは今でも一つの鏡として存在している。
何と言っても西洋は歴史があるし、今のようにドン詰まりの状況でもそれなりの活動をしている訳です。
そしてもう一つ、僕達が近代で忘れてきた事は・・・例えば朝鮮半島に眼を移すと、色んな意味で自分達と非常にちかい民族が近代現代美術を展開してきている。それを比較してみると色々な事が考えられるというか、自分達の事が判るんです。そう思ってずっと見てきました」

・・・西洋美術を子供の頃からずっと見て習って頭にインプットされてきて、その眼で韓国の作家を見ると戸惑いを感じるんです。言葉にはなりませんが、え! 何で? って思ってしまう。

「 その 『え! 何で?。』 と言うのが、近代の中で僕達が忘れてきた事なんです。色々な形で等閑(なおざり)にしてきた部分だと思いますね」

・・・それを活字にして表現される事が、これからのお仕事に繋がるんですか。

 「そうですね。僕の場合は西洋だけはでなく、韓国と中国、東アジア地域に自分達の姿を写し直していく事をこれからも続けていく積りです」

・・・でも、中国の発展は凄いものがありますよね。私自身一人鎖国を続けているので周りの状況はよく判りませんが、今、日本人は自分達が前に前に進んでいるような錯覚を持っている。というか思い込んでいるだけで、実は世界から凄く置いてきぼりをくっているような気がするんです。
私はそれはそれで受け入れるしかないと思うんですよ。日本は成長期から熟成した高齢化に突き進んでいる訳だから・・。

「それを逆手にとるしかなくて、今団塊の世代以降、高齢化が進んでいる。もっとスパンを広く考えて、これからの日本は文化でも何でも基本的に老齢化社会なんです。
今後100年や200年はそういう積りでいった方がいい。そういう事を考えると今の日本政府や日本全体の立場はとんでもなく駄目な訳です。取り残される事は間違いない」

・・・間違いないですよね。

「そこでどうやって熟成させるかですよ。現代美術の世界は今でも・・・例えば美術館の学芸員らを中心にして八割位が西洋欧米主義者です」

・・・そうかもしれませんね。

「これは明治以降の日本近代の姿そのままじゃないですか。でも21世紀の後半にこれが逆転して80%が中国主義者になっても可笑しくないし、半々になるかもしれないし判らないですよ。どっちになっても駄目です。
寧ろ我々は、ショボイけれども何とかそのショボイ姿をそのままで何とかしていくしかしょうがないというのが正当だと思うんです。
今まで西洋主義者でいて、西洋の人達に相手にされたかというと、されてないですよ。だから21世紀の後半に中国主義者になって、中国の人達が相手にするかといえば、しない事は100%明らかです」

・・・なるほど。所で突然ですが、 映画がお好きだとお聞きしたんですが?

「 一番好きな映画監督は溝口健二ですね。この人の映像は最高です。映像が凝ってるんですよ。僕は映画は映像だと思うんです。
一般の人達が受け入れるのは物語です。物語を語ろうとすると映像が二番手になる。この物語主義は色々な所に弊害がでています。美術に基本的にでてますね。物語があってもいいけれど、物語が主になると絵だという事が次になる。
例えば一枚の絵を見た時に、一般の人達の反応は 『あ!綺麗だ。とか美しい。』 と言う。
それは何がですかと聞くと、『綺麗な人でしょとか綺麗な風景だ。』と言うんです。人が描かれているから判る。風景が描かれているから判る。と、そこにはイメージを見ますが、絵そのものを見る人は中々いないんですよ。
イメージを見るのはいいけれど、それを通して絵を見なきゃいけない。僕はそう思う」

・・・確かにそうですね。絵画でも彫刻でも映画でも眼で語りますよね。

 「絵は最終的に感覚だといいますが、一般の人は表層的に理解していて、自分の感性に気にいればいいと思っています。それはとんでも無い間違いで絵が感覚だという事は“眼という感覚が作るものだ”という意味だと僕は思うんです。
眼というものは面白い視覚で、僕達が気が付かない所で眼が蓄えているものは沢山あるんです。実際には脳に蓄えられる訳ですが、それは視覚を通す訳でしょ。そういうものは沢山あって、僕達が言葉に出来なくて、でも視覚が蓄えてきたものを人間はそれぞれ持っている。
それをどう表現できるかというと、やはり一番いいのはイメージによって絵によって映像によって・・・兎に角言葉ではなくてイメージで表現するのがいいんです。そういう意味でいうと人間の眼で見てきたものはもの凄く豊かなんです。
現代美術の画家達は、難しい作品を作っていると思われているかもしれないけれど、彼等がずっと蓄えてきた眼、眼というのは空間に対して開かれますよね。その空間をどう表現するか、つまり眼が蓄えてきたものをそのもとして語らせる。現代美術のいいところはそういうものだと思います。だから言葉に中々ならないし 言葉で説明しようとすると難しくなるんです」

・・・なるほどよく判りました。やはり作品は眼が覚えてますもんね。変な表現ですが凄くいい作品だなと思うのは眼が気持ちがいい部分があるというか・・・確かに見たいなという欲求は眼ですよね。
では最後にもし評論家にならなければ何になっていたと思いますか?

「現実の流れとして評論を書いていなければ、美術史の先生をしていたのが妥当なところかもしれない」

・・・例えば映画監督ではないんですか?

「そういう事で言えば芝居をやりたかったんです」

・・・ほう〜。

どうもありがとうございました。

 お話をお聞きしてから ・・・
『これからの美術はどうなっていくんだろうな。100年200年のスパンじゃないと判らないという事は絶対に見れない訳だから・・・ん〜。とても残念だな〜。でも新しいものが出てきたとしても今のものと多分全然違う訳だから、え! これがって・・・きっと思うんだろうな〜。』
と、樹齢400年の首かけ銀杏の木に、眼だけでも埋め込めないものかな〜と、じゃ、脳は? まあ! 今までも能が無くても生きて来れた訳だから NO PROBLEM.

 

お問い合わせ先: 千葉成夫

〒487-8501 
愛知県春日井市松本町1200
中部大学 人文・社会教室

FAX 0568-51-1743

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