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 秋といえば行楽シーズン、万年金欠のオサルスには旅行は無用のものだけど・・・たまには遠くに行きたいな。
いつも銀座界隈でランチだけじゃ飽きるしね。そう思っていると救いの神あらわる。

 8月の終わりの銀座『ギャラリー閑々居』での内倉ひとみさんの個展、オーナーの北条さんと内倉さんの話を耳をダンボにして聞いていると、内倉さんは那須塩原にアトリエを構え、高原の本でも紹介された十角形のお宅にお住まいとか・・・。
十角形の家? 庭にポニー? 温泉が側に? いいな〜。行ってみたいな〜。近くに美味しいランチの店があるかもしれないし・・・。
「衣・食・住」 というくらいで、たまには 「住」 も有りかな。
と、いう事で、今回は図々しくも那須塩原に行って来ました。


駅から車で20分。凄くいいところですよ。いいなあ! 自分の家が別荘みたい。 ここでは近くに食べ物屋さんはある訳ないよね。でも、空気が美味しいです。ランチは美味しい空気という事で、リゾート気分を味わいながら内倉ひとみさんにお話をお聞きしました。

・・・那須に引っ越されてから7年くらいとお聞きしましたが、何故那須に。

 那須に10年ほど前から遊びには来ていましたけれども、住もうとは思っていなくて・・・まだ都会にいなければいけないと思っていましたし、まさか自分が田舎に引っ込む事は考えなかったものですから。
しかし那須に引っ越す三余年前から、いつまでも都会にいてもしょうがないと思いまして、どこか安住の地というか・・・安住の地といっても永遠にそこで終わりにするというわけではないけれども、もっと落ち着いた環境のところに引っ越した方が自分の為にいいなって・・・。
20代の頃は都会に暮らしていても良かったんですが、30代に入ってくると世間の事を一通り経験してきてどういうことが、ばかげた事かどういう事が実りある事か、そういう事が判るようになってきて自分のやっている事が凄く馬鹿馬鹿しく思えてきたんですよ。
もうやる前から世間の人達は私達みたいなアーチストには、親もそう言ってたように、
『いい加減そんな馬鹿な事やめなさい』
と、まあ、それが普通なんですが、自分自身も自分のやろうと考えている事に対して駄目だしをするようになってきたんですね。
『先が見えてるんだから、やってもしょうがない。そんなにがんばらなきゃいけないのか・・・』
とか、そういう問いが自分の中で多くなってきて、20代は簡単にそういう否定的な意見は一掃して、
『いいのよ』
と、聞きもしなかったんです。聞こえてもすぐ流してましたから、だから都会じゃないもっと一人分の空間が広い所に移動した方がいいなと思い始めてたんです。
そこに自分の力だけで考えていると又、非常に計算して計画的に事を運んでいくので、そうすると自分の考えている狭い世界で終わってしまいがちになるから、何か馬鹿げたような大きな力が欲しかったんです。

 そこでひょんな事から馬を買ったんです。小さなミニチュアホースですから、都会でも三畳くらいの庭があれば充分だと言われて分けてもらったんです。でもたとえミニチュアホースといえども三畳なんてとんでも無い話で、大きな空間が必要なんです。
最初は自分の為でしたが、馬の為に引っ越さなければいけなくなっちゃって・・・色々な場所を探しましたがみつからなくて・・・たまたま疲れたから来たここの温泉で
『土地があるけど買わない』
と言われて、即、契約しました。

・・・設計はご自身達で?

 私の友達が設計しました。その方が薦めてくれたのは一つはこのドームはハウス。もう一つはテニスコート一枚分のオランダ製の温室でした。温室なら那須の寒さを凌げるだろと。

 ・・・空が見えるからこちらにされたんですか。

 主人がこちらの方がいいいと言ったんです。このドームハウスはバックミンスター・フラーのパテントで既製品なんですよ。

 ・・・自然と溶け込んでいていいですよね。憧れます。

 憧れる方は多いみたいですね。こんな普通の感じで穏やかなのはないっていわれますね。前から家具をそんなに持っていたわけではないけれど今までのものは殆ど捨ててきたんです。

・・・以前にも書きましたが、内倉さんの作品との出会いは、亡くなった私の大学時代の友人の部屋の窓に張ってあったクワトロという作品。

 このぐらいの大きさの窓に張ってあった作品ですね。

・・・それまで内倉さんの作品にはあまり接点がなかったんですが、85年くらいまでは巨大な植物の作品を制作されてますね。内倉さんは私と同世代、ちょうど学課も日本画、あの当時四角い画面から抜けるのは大変だったと思うんですが・・・。

 私が多摩美の日本画に入学したのは、高校の時の先生が日本画の先生だったので描かないかと薦められて、中学の時には油絵を描いていたんですが、油絵の具の匂いが駄目でお腹をくだしたんですよ(笑)。
もし彫刻の先生だったら彫刻科をうけていたかもしれません。日本画に入っても日本画に対して何かビジョンやイメージがあったわけではなくて自分の制作の実践活動の方が大事だったんです。
ちょうど大学の三年生になった頃でしょうか。何故だか私は絵が仕上がっていくのが嫌で、完成に近づくと悲しくなってきていつも9割りくらいで投げてしまうようになったんです。完成に近づくとやる気をなくしちゃうんですよ。
私の性格はやる気をなくすとまったくやらなくなる性格なので、先生に
『何故、ここまで描いていて仕上げないんだと』
言われてました。それで自分の気持ちを色々分析していって・・・好きな事をしているのに、何故こんなに苦しいのだろうとか、何故人の為に描いているような描き方をしなければいけないのだろうとか、そういう気持ちになっていって・・・。

 手も足も動かせないようになってきていた時に、李禹煥先生のゼミをとっていたんですが、ゼミの時にその悩みを打ち明けたんです。そうしたら先生がアトリエまで来てくださって何も描けない、何も動かせないでいる状況のアトリエをご覧になって、

『平面作品について画面があるのを当たり前だと思わないで、紙を張る以前にはパネルがあるだろう。パネルはどうやって出来てるか見てごらん。木の桟にベニヤが張ってあって、紙は紙漉きしてそういう経緯できたものを貼り付けているわけだと。それを当たり前だと思わないで、最初からいい意味で疑う事も大事なことだと』

と物凄くやさしくお話してくださったんです。

・・・では、講評会であれを描いてはいけないとかこれを描いてはいけないというのは無かったんですか。

 ええ。何を描いてもよかったんです。いつも自由課題でしたから。

・・・当時の武蔵美は結構保守的でした。あれも駄目これも駄目といわれたのを覚えています。まあ、そこで自分が悩まなかったからいけなかったなって・・・今になって反省しても遅すぎますね。それから光を素材に?

 それで平面からレリーフ上に起き上がった形で制作していたんですが、1988年の頃にまた辛くなってきて、今度は 『壁につけるような大きなものを作らないか。』 と依頼されて・・ちょうどバブルの頃でお金になるような仕事が来るようになってきたんです。
すると自分が工事屋さんとか内装屋さんとか、請負業者さんみたいな話をしなければいけなくなって、形に嵌めていけばパターンとしてやれるわけなんですけども、そういいながら労働するのは私自身でしょ。一部外注したり人に手伝ってもらってバイト代払ったりするんですけど、こんな風に自分の仕事がばらけていって・・・。

 又ここで幸せ感を無くしたわけ(笑)です。何でこんなに辛いんだろと思ったんですよ。何かもっと自分のアトリエで密かに始まる構築的な事をしたいのに、分業してるし、人とお金の交渉で腹の内を探ってみたり、向こうにも探られたりね。
そんな風な事が私の性格には合わないと、何故こんな風になったかとよく考えたら、私はそんなに美術にはのめり込んでないなと思ったんです。もっと私が美術をする人間であったら、プロセスなんてどうでもよくってそれは嬉しい話ですよ。目一杯没頭すればいいことですから。それがお金になるんなら、こんないい事はないしね。
それを没頭できない自分は何かと考えると、要するにあの時の現代美術というものをアカデミックに周到していただけでいる自分に気が付いたわけです。その頃作品を買ってくれる方と知り合うようになると皆さん物凄くインテリだし、私なんかよりも遥かに人生においても社会的にも先輩で、そういう方々に私の作品を見せるには、相手にないものを私が出しているから求めているんでしょうけれども、少し騙してるような気がして・・・。
全然比較にならないし、こういう人達と対等の人間になるにはまだまだ足りないなと・・・それと仕事上のトラブルを全部含めて、自分が未成長であることが判って、作品にはある程度の評価を頂きましたが、それに対して平気でそれをものともしないで踏み台にしてやっていけるほど、自分の精神が強くなかったんですよ。まだ自分の心が成長していないというかね。
その頃は30代前半でしたから、40歳まで遠回りをしようと思ったんです。それでそれまでやってきた事をすべて放置して、制作は休みませんでしたが発表を休みました。とにかく自分の心の成長がくるまでじっと我慢しなきゃいけないなと。
それまで私ね。現代美術のアカデミズムにのっとって作品を制作する時にね。コンセプトOK。表現力大胆OK、その中に踏み込んだ繊細さOK、とか指折り数えてそれで作品が出来上がったと思っていたんです。そういう風に構築しちゃうわけ。それだと非常に小賢しいわけで、それで自分のものを見つけるために、絵日記をつけるというか、毎日プランを作り始めたんですよ。
机の前にA4の紙に一時間で出来ることしか描かないんです。一時間以上超えてしまうと手遊びになってしまうから、上手く描いてしまうし手癖で昔に戻ってしまうからもうそれ以上は描かないようにしました。毎日毎日プランを考えて・・・それを丸二年やりました。
一年半くらいでこれ以上やるのは限界だなって思ったんですよ。机の前でどうしても出てこないから、もう何も出てこないようなら美術を止めた方がいいと思って、もうこれで終わりだと涙をポロリと流した時に、こう手を紙の上に置いて鉛筆で描いていたんです。

 ふっと手を外したら、そこに手のアウトラインが残っていたんですよね。今までは上手に描けるとか描けないとか言いながら手をデッサンしていたんです。でもこういう手のアウトラインを見てもだれが見たって充分手なんですよ。今まで随分無理な事や偏ったことばかりしていたなってふっと思って・・・そこが最初の切っ掛けだったんです。

・・・そして光が。

 やはり美術の醍醐味というのは、例えば美術作品を子供に見せても、一度これはこういうものだと理解すると、もう興味を持ちませんよね。大人というのは、同じ作品の前に百回立っても千回立っても、同じ事を思うわけじゃないけれど、どうしても同じ作品に惹かれて何度も何度も会話をしますよね。
そういう時は自分の中にある琴線に触れるというか、見ている人は自分の中の知らない自分に出会う為に作品を見ているんだと・・・自分を見る時に暖かく優しく見れるような状況になれるようなものを作りたいなと。鏡はまず顔を写すものですが、どうやって作ったらいいか判りませんでしたが、顔の写らない鏡をつくろうと思いました。
偶然 道を歩いていたら鏡が捨ててあったんです。それを貰ってアトリエに置いてたんですよ。ただ、割れた鏡を並べて置いても顔が写ってしまうし、どうにもならないなと思ったのですがとにかく置いていたんです。でもある時床に向かって絵を描いていると、
ふっと周りを見上げると、アトリエ中太陽光が目一杯燦爛していたんです。自分は今生きているのかなと思ったほど美しかったんです。でも何がその時起こっているのか判らなくて・・・色々探してそれが窓辺に置いておいた鏡の破片だという事に気が付きました。

 丸い綺麗な正円の強い光や弱い光が目一杯輝いていて、とても幸せ感に包まれていたんです。今まで私はずっと下と壁ばかり向いて絵を描いてきたけれど、いきなり肩から力が抜けてもっと違う事をしてもいいんだよと。そういう気持ちになりました。
私は見る人と作品の間をつなぐ・・・見る人をこういう風にさせたいという意図もありながら、あまりしつっこくもせず、それで道具に関しても私が操作をしてそういう気分をもたらすように作ってあげる人。そういう立場でいいんだなってね。演出する立場が私は似合っているのかなと・・・。

・・・そうですか。それでこれからフランスに文化庁の在外研修員として行かれるんですよね。ところで苔ってなんですか。

 苔、苔を見たの?

・・・よく判らないんですが、ネットでちょっと・・・。

 苔はフランスから帰ってきたら発表すると思うんですが、フランスで一つ小さな苔の作品を作りたいと思ってます。作品の表面に張るものとして、凄く愛情深いものを作りたくて、下世話な言い方ですけれど、凄く幸せで愛が深くって、転んでも転んでも助けてくれるような、私はしないけれどね(笑)。
そういう作品を作りたいとその外側に張るものとして苔に出会いまして、今、屋上緑化などしきりに言われていますけれども、シリコンで貼り付けるような苔なんです。そういうものを作っていらっしゃる苔の研究者の方がいて、今42歳なんですが、7歳くらいから苔の本格研究をしていた方なんです。苔学会で彼を知らない人はもぐりだって言われています。早くから特許をとってね、苔の研究でNHKでも紹介されているんですよ。

 ちょっとお見せしますね。
今、乾燥状態なんです。苔には乾燥苔と水苔と二種類あるんです。これはFRPにシリコンで貼り付けてあるんですよ。

・・・生きてるんですか? 乾燥タイプはよく判らないんですが、水を凄く吸うというのは知ってます。

 例えば、都心の二階建ての家の屋根にこの苔を張ると気温が全然違うんですって、ちゃんと湿度の調節もするし、夏は断熱の効果や冬には保温もしてくれる。

・・・へぇ〜ですね。

 ん? 苔は土がいらないから、ほかの羊歯植物よりも高等になってくると土がいるし肥料もいるし、散水もしなければいけないから、苔が一番屋上緑化にはほったらかしのままでいいから適しているんですって・・・。これで充分生きてるのよ。真緑じゃないと見た目には死んでいるように見えるけれど、今は乾燥状態だから。

・・・今、苔球が流行ってますよね。

 苔博士にはじめてお会いした時に、私が
『母性愛のような非常に強い愛の優しい作品を作りたいんです』
と話したら、
『それは苔には最高だ』
って言うの。 苔の花言葉はマザーラブっていうんですって。

・・・へぇ〜ですね。

 ん? 苔は無機質のところでも成長するんです。どんな所にでもいってそこにコロニーを作りますから、要するにどんな所にでも家を作って子供を増やして、そして死ぬ。又、その死骸が有機肥料りなりそこに他の種が来たり、虫が卵を生んだりとか、そうやって自然形態を形成していくので、すべてのベースになるからマザーラブと言うんですって・・・。

・・・へぇ〜。知りませんでした。

 苔とマザーラブまでは出来ているんだけれど形が難しくってね。二年くらい前から苔・苔と言ってるんですが、出来ないでいるんです。それには苔の性質をもっと勉強しなければいけないし、苔の性質が判れば形は自ずと決まってくるんだなと。
出発前に先生に集中講義をしてもらって最初の発表はパリでしてみたいと思っています。私の作品に種が落ちて花を咲かせたり、他の植物がこれを肥料にして成長してくれればいいと思っているんです。

・・・いいですね。素敵。どんな形になるか楽しみです。

 置くとしたら、なるたけ都会がいいんです。

・・・そうですね。都会はすべて人工物に囲まれて人の心も無機質状態。皆が優しい気持ちになれるようにマザーラブで包んであげてください。

ありがとうございました。気をつけていってらっしゃい。

苔は何処にでもあってサッシにも付くし砂漠にもあるそうです。でもオサルスの苔のイメージは地面や石についたものを思い出してしまうんですよね。君が代の苔のむすまでの感じかな・・・。

 内倉さんに那須にもう慣れましたか? と質問すると「慣れるまでに6年掛かりました。」の答えが。
桃栗三年柿八年。苔もそうだし何でも実になるまでは大変です。でも実に成ればいいけれど、
『桃栗三年柿八年、俺は一生。』
と恐ろしい言葉もある・・・オサルスの一生とダブりそうでトホホホホ・・・。

 ところで那須塩原駅の側にはブリジストンの工場が、先日の大火災で見るも無残な姿に・・・。

内倉ひとみ関連情報 2001.1

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