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携帯オサルスのおすすめランチ ランチdeチュその99

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ランチパスタ ナポリタン 1000円

giggle cafe
東京都目黒区上目黒1-4-2 Sousyu-Building 2F
Tel. 03-3794-8972
Open 12:00〜4:00am 無休

gadenでgallery情報を載せているんですが、まあ、展覧会の数が多いのにはびっくり! 昔は銀座界隈だけ見ていたら事足りりたのに、今じゃ範囲が膨大に広がって電車賃もばかにならないんだよね。
ここ中目黒もミヅマ・アート・ギャラリーさんが原宿から移転して来て。
中目黒には今まで縁がなかったんだけど。結構面白そうなお店が多い感じ。いつかこのあたりでランチもいいなと思って、三瀦さんにお願いしたらギャラリーの近所のgiggle cafeをご紹介頂きました。

・・・こちらにはよく来られるんですか?

 「近所ですから。ここはペットが入ってもいいお店なんです」

・・・う〜ん。近所なのか・・・でもこの造りは普通のお店とどこか違う。さっそくネットで検索したら東京カフェ案内
http://www.hypertown.ne.jp/dolce/cafemania/01tokyocafe/nkmg01_gigglecafe.html
で紹介されてるお店。

  違いは何処かって? だって名刺の住所が横文字だもん。最近はギャラリーの案内状でも英語表示だけというのがかなりある。英語がまったく駄目なオサルスはハテ? ここは日本じゃないの? と首を傾げてしまう事もしばしば。何かオシャレな感じはするよね。でもレストランとカフェの違いはなんだろう。因みにカフェを辞書でひくと、軽食堂という意味。こちらのオーナーの吉田兄妹がカフェをつくる時にイメージしたのは、落ちついてくつろげる空間だとか。
今日はミヅマ・アート・ギャラリーの三瀦さんにくつろげる空間でじっくりお話をお聞きしました。

 おっと! その前にメニューを忘れるところでした。三瀦さんはランチプレートのカチャトラライス(手羽元をワインビネガーで煮たもの。ドリンク付き1000円)オサルスはランチパスタのナポリタンを注文。お皿にパスタとサラダのセット。
量は丁度いいかな・・・パスタの麺が細めで好みです。トマトがさっくりパスタになじんで美味しい。ナポリタンというネーミングだとゴテゴテのパスタを何故か連想するのだけれどラッキーでした。それに温野菜がざっくりと大ぶりに切ってあって、ゴマ風味のマヨネーズとの相性はGOOD。中目黒、結構お薦めです。

・・・何故、画商になろうと思われたのですか?

「まず、言葉を訂正したいな、画商という言い方は僕には無いのです。画商というとただ作品を売るというだけで日本の古い翻訳的な言い方で好きではないんです。僕はあくまでも作家をプロデュースしていくというか、作家に刺激を与えて作家に何かインスパイアーしながら、作家が何かを生み出す事を重要視しています。共にこの時代に対して何かを語りかけていく姿勢を貫いているんです。ですからただ場所を提供して売っているだけではないんですよ」

・・・アートディレクターとは違うのでしょうか。

「アートディレクターと言うのは、ジャンルが広くてデザイン等の世界にもいる訳ですが、現代アートの世界では自分のスペースを持たないで色々な作家をプロデュースしていく人のことを指すのだけれど、やはりね作家とつきあうには継続が必要だし、時間が掛かる事だから、自前のスペースはいるよね。又、ある種のカラーを強烈に出していかなければならないかね」

・・・では、美術に携わった切っ掛けを教えて下さい。

 「これは血ですよ。親父は画商とかそういうのではないけれど、まあ大正時代から昭和にかけての時代は日本の中でもっとも輸入文化が花開いた時、親父は大正アクションアートでは神原泰とか、他には関根正二、永井荷風とかそういう人達と付き合いがあったディレッタントな人だったんですよ。
 当時のフランスの現代音楽、今からみると近代音楽というのかもしれないけれど、ドビッシーとかプーランクとかフォーレとかもっと言えばサティーを初期に最初に日本に紹介した男だし、当時は紹介しても飯が食える時代では無いので、まあ、趣味的にやっていたのです。
 そういう中で出会った関根正二とは親友でした。関根正二の日記の中にはしょっちゅう親父の事が出てくるし、死ぬ間際に最後に会って色々な話をしたんだと話をしていました。関根正二が亡くなって直ぐに今の兜屋画廊の前身の兜屋画堂
(1919年 神田神保町に兜屋画堂(現画廊前身)設立 1928年 兜屋画廊と改称) で関根正二の追悼展があったのだけれどそこに文を寄せています。それは中公美術から出版された関根正二(酒井忠康監修)にも載っていますよ。関根正二の日記を読むといつも集まって芸術談義を交わしていた事が書いてあるんです。素晴らしい時代だったようです」

・・・へぇ〜。

「まあ、親父は 『新青年』 なんかに伊藤深水の事についても書いているし・・・」

・・・評論家の方だったんですか?

「評論で飯が食えない時代の評論家です。音楽だけに留まらず芸術全般ですね。スペインの有名な前衛舞踏家のサカロフ夫妻が昭和9年(1924年)日本に来た時も文章を載せてるし、バイオリンのジャック・ティボーを1928年と36年に日本に呼んでコンサートを主催したり、当時はお客が50人くらいしか集まらなかったらしいけれどね。(1953年3度目の来日の時にアルプス上空で飛行機事故死した天才的バイオリニスト)

 明治から日本は音楽や法律や哲学をみれば判るけれどドイツ一辺倒でした。でも親父は、
『ドイツ哲学なんか何が面白いんだ』
と言って本人はフランスに行ったんです。それが僕の背景にある。まあ、要するに親父は遊び人ですね。戦後になって音楽評論や何かで仕事がドンドン入って来て飯が食えるようになってくると 『音楽評論で飯が食えると思わなかった。日本はいつから文化国家になったんだ。』 と、自分の戦前の経験からはこんな事は考えられないと止めちゃうんですよ。で、止めてしまって売り食い生活です。そのうち売るものが無くなってね。家の中には何も無くなって貧乏でしたよ。そういうなかでガキの頃育ってきましたから・・・。
 親父は例えば音楽なんかは評論は一番つまらないジャンル、楽しいのは作るか演奏するか聞く事だと云っていました。日本のもっている画壇、文壇、楽壇の世界の狭いセクト主義みたいなものに対する痛烈な批判を持っていたし、ですからこの時代の中で受け入れられない人達と仲良かったというか・・・勿論関根正二にしても深水はその後で成功していますが。まあ、関根正二は早く亡くなりましたけど・・・。

 親父の最初の奥さん(三瀦牧子)は日本で最初のコルラチオールソプラノ (高いソプラノの領域を出す) のオペラ歌手だったんですよ。彼女がサティーが死んだ翌年 (1926年大正15年5月12日第一回独唱会を帝国ホテル演芸場で開催) くらいに、サティー礼讃の曲を日本で歌ったんです。それは親父がさせたんですよ。オオリック作曲ジャン・コクト詩の 「エリック・サティ礼讃」 この独唱会の前半の7月1日にサティは聖ジョゼフ病院で寂しく死んでいる。三瀦牧子は更に1927年昭和2年5月14日に日本青年館で第3回独唱会を開きそこでサティの曲を本邦で初演している。曲目は 「私はお前を求むる(Je Te Veux)」 アンリィ・パルコ詩、余談ですがこの独唱会を坂口安吾が聞いて日記に記している75年前の出来事である。
 サティはそこから40年も50年も経ってからじゃないと評価されないから、何ていうのかな親父はそういう時代に、先見の明があったんだと思いますね。だからその辺が血なんだろうな〜。
 まあ、そういう意味で芸術に手を出すとろくな事がないとも親父に言われていましたけどね」

・・・それは判るような・・・。
 
 「僕は時代の中で主流になっていくような大きな流れでは無くて、まあちょっと傍流ではあるのだろうけれど・・・異端と正系でいえばどちらかというと異端のものが好き。そういう感じじゃないかな・・・」

・・・画廊というスペースを最初に持たれたのは何時なんでしょう?

「一番最初は1989年。ミズマ・アート・ギャラリーの前身ですけども、その時はフランスのパリのマーグギャラリーとの付き合いで、マーグの作家をやったりとか、そこに黒田アキという作家がいまして、個人的にはコレクションもしてました」

・・・コレクターだったのですか。

「広告の仕事をしていた時代に雑誌の表紙をカバーギャラリーと称してですね。日本向けのPR誌には、海外の若い作家を紹介して、海外向けには日本の作家を紹介するような事をやっていたので、そういう中から少しづつ作品を買ったりとかしてましたから、そのうちに何で画廊をはじめたのかと云えば、作品を買う時にコレクターでは10%しか引いてくれないけれど、ギャラリーをやっていると50%になる事を知って・・・海外ですけどね。じゃあ、名刺だけ作ってやってしまおうかとも思ったのですよ。
 まあ、 人に売るよりも自分が買う為にギャラリーをやるかという事ではじまって、そのまま実は、はまり込んでいったというか」

・・・1989年はちょうどバブルですよね。村上隆さんが初めて個展をしたのが91年 「TAKASHI,TAMIYA」 で現代美術アーチストとしてデビューされた。出会いはどうだったんですか?

「村上は当時の僕の画廊に来て展覧会をやりたいと細見画廊(「賛成の反対なのだ」)でもやるしと、細見画廊は近所だったんです。僕は面白い奴だなと思ったけれどまだすぐ自分が飛びつく感じじゃなかったかな。当時は、『お金ないんだろう』 と、それこそ昼食代みたいな安いお金を出して作品を置いていってもらった覚えはあります。TAMIYAの小品を置いていったんですよ。

まあ、そういう出会いはしてましたけども、ちょっとまだ本当にそういう方向に目がいくのは92〜3年くらいからですか・・・。当時僕は黒田アキがかなり面白いと思っていて、丁度アメリカで日米交流協会主催の交流展があって、そこでダブルテイクという展覧会を僕が企画したんですよ。ダブルテイクの意味は二つの文化を持つという事で、一つは若くして日本の文化で育ちながらヨーロッパに渡って向こうで欧米の文化を吸収しながら作家として成長して活躍しているという事で、パリにいる黒田アキとロンドンにいる白石ゆう子、ケルンのイケムラレイコの三人でニューヨークで展覧会をやった。
そのカウンターで当時東高現代美術館があってそこの最後の展覧会がストレンジ・アブストラクションという展覧会で、これは向こうでジェフリー・ダイチがキュレーションをして日本に持って来た展覧会でね。(クリストファー・ウール、ケディー・ノーランド、ゴバーの作品展)その交換展で僕がこの三人を企画で出してやったんだけど、黒田が全然駄目だったんですよね。
荒川修作に云わせれば 『靴下の模様の作家だ』 とかひどい云い方をしていましたが・・・まあ、そいう愛情の無い云い方は別として。彼は東洋のマチスとか云われたように、色使いとか色の表現が面白かったんです。でも逆にフランスに行った事でフランスのエスプリの中に染まってしまったと、もう少し日本にいれば違う絵が描けたのではないかと思うけれど、彼はそれを由とした。確かにマーグギャラリーは昔は凄いギャラリーだったけれど、現代はなかずとばずですね。

そういう所にはまってしまったという事で、黒田アキはアメリカに行った時に冷たくあしらわれたんです。それが自分の中ではショックでね。イケムラさんはちゃんとした自分の世界を持っていたし、白石さんも自分の世界の認識があり彼女なりの色の出し方にルーツが感じられるんですよ。
そういう部分は黒田アキは違ったかなと・・・決して黒田アキがそれで駄目だというわけではないんです。東京国立近代美術館での個展もやったわけだけだし、唯、僕がサポート止めた事によって日本での彼の動きが一時ストップしてしまって、それは非常に申し訳ない事をしたと思うけれど・・・。
  でも僕はそこから『俺達はどこまでいっても。黄色い顔して日本語でものを考えているし、別に背伸びして外人の真似をしてもしょうがない。まあ、白人の目でものを見てもしょうがないな・・・。』と、思い始めたのですよ」

・・・なるほど。では欧米以外の国はどうでしょうか。

 「アジアには目を向けています。アジアのアーチストは日本で展覧会ができる事は、彼らにとってのひとつのステータスだし、日本がアメリカにステータスを感じる事と同じ事。

  アジアに最初に出て行った時は、僕はあまり中国とか韓国とかはもう先達のギャラリーがやっていたし、あまり日本のアート関係者が行っていない所に目を向けました。ベトナムとかタイとかミャンマーとかで作家探しをしたのです。
 でもね。最初行った頃にはこれらの国はまだまだと思った。この思い上がりは自分の目がいつのまにか白人の目で、西洋の尺度でものを見るようになっていたんですね。
『何で俺、日本人のくせしてこんな見方をするのか』
と、それをアジアの作家達に気づかされたというか、彼らはやはり当たり前なんだけれども、自分のやりたい表現を、要するにエスニックと云われようが何であろうが面白いと思ってやっている。
そういうプリミティブなもっとも原則的な事をやっている姿を見て
『まあ、俺は多分白人達が日本に来て、ここはまだまだと思うような目でアジアを見ていたんだな』
と、そこから逆に自分の視点の誤りみたいな事に気づいてね。
 それからアジアの作家と日本の作家で逆にこちら側から発信していってやろうと。
当時ベトナムでいい作家に出会って、彼が世界の桧舞台に行くような作家にもなったし。今迄そういう事ばかりやっていましたので、今だに流行とかそういうものに疎いんですよ。流行的なものを追えば儲かるかもしれないけれど、中々そういうのに乗れないし、『流行ははやりすたりがあるからと嘘ぶいたりしてるし・・・ね』 」

・・・テレビの「誰でもピカソ」に出られたのは?

「あれはもう4年くらい前からですね。ああいう所に出る事は、日本の美術界の中にある種の風あたりがあるんですよ。馬鹿だとかくだらないとかね。
  そういう事に対して僕は、
『この時代テレビの影響力はすごいものだし、そういうのを利用して、下手な画廊でやるよりは、視聴者に作品を見せた方がよっぽどいいし早いんじゃないの』
と、言ったんだけれど、お笑いの中の一部のようにとられて・・・。
まあ、 ああいう所に出たら駄目になっちゃうという云い方をしているような層がいるかぎり、俺は出演しようと。
寧ろそういう事を云っている日本の体質の古さみたいな事への反撃みたいな気持ちであそこに出ていたんです」

・・・でも、今は4年前に比べたら随分受け入れられてきたんじゃないですか。時代が変わってきたような・・・。

「それはサブカルとカルチャーの境界が無くなってきているからでしょう。今や漫画やアニメの方がメインストリームになっている。それと村上現象ですよ。彼が作り出しているゲイサイとかそういうものが、『誰でもピカソ』 のアートバトルもあるしね。(笑)」


・・・ゲイサイ4でシミジーに会って話を聞いたのですが、ワクワク感とか何かに出会える事に期待していると云っていたのです。三瀦さんとはゲイサイ1からずっとご覧になっていてどういう感想をお持ちですか?

 「村上に対する色々な批判を皆するけれど。僕は逆に彼のやっている事に対してリスペクトしているし、彼は今までの日本の古い体質に対してアーチストでありながらそれをブチ破ろうとしている凄い強靭な男だから、彼は日本で自分のやりたい事ややりたい世界を実現する為には、まず壊してからしか出来ないという、本来アメリカにいたらマーケットを相手にしてやればいいのだろうけれど、日本ではそれが出来ない。こういう日本の不幸な現実と戦っているのです。

結局、日本は一種の閥というのがあって、そういう中で隠然とつまらない世界で力を持っている人もいるわけだから、彼の場合にはそういう連中に対してある種ゲイサイみたいなものを通して新しいムーブメントを作る事。 それがどういう方向にいくのか、どういう起爆剤になるのかわかりませんが、線香花火で終わってしまうかもしれないけれど。
 まあ、参加しながら見ていくのは非常に重要な事だし、少しづつですけどレベルも上がってきているけれど、子供っぽくて貧相でアマチュアっぽくていいんだけれどね。同じなんですよ。『誰でもピカソ』 のアートバトルに出るというのと。あんなもんに出たら駄目だっていう。そういう意識が働く連中がやはりまだ多いんですよこの国の美術界には。そういうのが無くなった時に変わっていくというかね。すでに実際変わってきてはいるんだろうけど」

・・・ん〜。変わって来ているように肌で感じてはいるんですが。

「ただね。逆に云えば、アートがかっこいいものだとか。アートで飯が食えるとかスターになれるとか安易な幻想を振り撒いているから反動がありますよ。そういう意味で素直にそういう風に信じた奴は怖いですよ。でも村上はそいうリスクを背負いながらやっているんだから、並みの男じゃないし、並みの作家じゃないよね。彼は」

・・・話はかわりますが、海外にはかなり行かれるのですか?

「今年はかなりの回数で行っています。殆ど日系のベトナム人のジュン・グウェンーハツシバというアーチストの為なんです。彼は2001年の横浜トリエンナーレや2002年のサンパウロや今年のベニスビエンナーレ等に呼ばれています。今年、アメリカのミュージアムで始めて展覧会ができたのです。カリフォルニアバークリ−大学というミュージアムでマトリックスという展覧会があるんですよ。
これはアメリカのミュージアムの初個展みたいな登竜門なんですよ。そこで彼は呼ばれていって新作を出しました。Happy New Yearというチャイニーズドラゴンが海のなかでのた打ち回るような作品を作ったんですけど。とても素晴らしい作品です。それでその作品はカリフォルニアのあとにニューヨークのニューミュージアムに行って、それが終わってイタリアトリノ市のカステリド・リボリやオランダのケープホルダーで展示され今はイスタンブールビエンナーレに展示されています」

・・・三瀦さんの一番お薦めの作家は彼ですか? 他には。

 「僕は自分のギャラリーでやった作家は皆好きだし愛しています。まあ、世界にブレークしたという意味ではジュン・・・彼は1968年生まれ。生まれた時はベトナム戦争の真っ盛りで70年代80年代のベトナムの荒ぶる歴史を体験してきた。
お父さんが南ベトナムの人で日本の東大に入学して母親と出会って、ジュンが生まれて直ぐベトナムに戻った。、彼が生まれた1968年頃はにベトナムでは北が南との民族の統一を願って戦争していたんだけれど、自由主義と共産主義という形で南北にわかれていたから、それから随分苦労したようです。
今は結婚して子供も生まれベトナムの若い人達の為にデザインやアートを教えながらホーチミン市で制作しています。
  僕は1997年に彼と出あってうちのギャラリーでずっとやってきているんですが、彼の存在そのものが普通の日本の同じ三十代や若い人達とは比較できない位、大国米国に翻弄された苦い歴史を体験しています。そういう作家なんです」

・・・日本人の作家に対しては如何ですか?

「会田誠とか山口晃(http://mizuma-art.co.jp/)とか・・・。特に会田誠なんかは、例えばやはり一つの時代に対する批評精神が強い。それから美術の表現の世界に対する疑問とかね。本人自身もよく言うけれど結局自分は日本人だし日本のこういう土壌から養分を吸い取って作品を作っていく、だからインターナショナルになるとか世界に出て行くという事に殆ど興味を示さない。皆、そういう事が登竜門でみたいな事があるじゃないですか。
スポーツの世界と同じでアーチストも、野球の選手みたいに海外で活躍するのが凄いという相変わらずの舶来思想というか。そういうなかで彼は孤高を保っている。そんなの全然興味ないとかそんなものに価値を見出さないんです。

 僕は、
『ん〜。そうだね。北島三郎や美空ひばりは日本にむけてしか歌を歌ってないよね』
って云うのですが、ああいう大衆性は持たないだろうけれど、そういう作家がいてもいいよねみたいな。かと思えば山口晃みたいに、彼は明治維新のあり方に懐疑的なものをもっているし、ああいう近代化の過程のなかでそれまであった日本の文化や面白いものを否定していくやり方に対して、彼なりの視点から、もし嘗て否定されたものが生き延びていたら、現代にいったいどういう形になるのだろうというテーマに挑戦したりとかしてなかなか批評精神のあふれた作品をつくっています。ミヅマの作家は皆、一癖もふた癖もある。
それなりの毒というか、世の中から見ればあまりそんな事云いたくないとか、描かれたくないという事を平気でドンドンやっていく作家達。ミズマの作家は毒があると云うけれど、毒がないような作家は逆に云えばどうでもいい作家でしょう。僕は昔から言っているんだけれど、世の中の毒にも薬にもならないような存在になりたくないからと、まあ、僕は能力がないから・・・毒だったら流せるな〜と。僕は文化人という言葉は大嫌いだし、自分は根っからの野蛮人でいいかげんですから。そういう自分の視点でドンドン毒を流してやろうと思っているのです。

  唯、まだ、この毒は大した毒じゃないからあまり俺の思っている敵は死なないなって(笑)、彼等の方がノウノウと力強く生きてるなって・・・だから引かれ者の小唄みたいに 『チキショー』 と思ってるんだけどね」

・・・始めに画商ではないとおっしゃいましが、商売としては如何なんでしょうか?

「それは商売を優先したら売れるものは判りますよ。まあ、それはそれとして売る事だけを考えるんだったらやり方はあるんだけれど。あんまりそういうとこにはいかないんだよね。じゃあ、金いらないか云えば金は欲しいんですよ。矛盾だらけですね」

・・・metooです。話は少し変わりますが、海外のビエンナーレやトリエンナーレをご覧になって日本の作家の占める位置は世界のアートシーンの標準に成りえると思われますか?

 「まったく無いですね。世界標準というのは欧米が作り出したひとつの価値基準であって、そんなものになる必要はないし・・・皆、インターナショナルという事を誤解しているんですよ。米国のギャラリーでやればとか欧米の国際展に出ればとか海外のコレクターがつけばとか、それはインターナショナルでは無い。
『真にナショナルなものは、真にインターナショナルだ。』
という言葉があるんですよ。だから徹底してナショナルなものは、絶対インターナショナルな世界に出て行けるんです。
 それを妙な国際性とか、妙な欧米の文脈とか、欧米のグローバルスタンダードに尻尾を振るから、ただ外側の衣装というか洋服をまとっているだけなんです。中身が無いって事なんです。そんなものはすぐ化けの皮が剥がれるし、何ていうのかな・・・肉体言語になっているようなそういうものじゃない限りはね、一過性の流行で終わるよと僕は言っているんです。

 表面的なものだけでで云えばスタイルとか・・・そういう人もいますよ。世界標準になりそうな人も。でも僕はそれは違うなと・・・。あとギャラリーもね。 60年代の遺産がありながら70年代80年代というのは、日本の高度成長に乗ってね、ある種擬似マーケットで踊っていたんですよ。作家もそうだしギャラリーの人達や銀座の画商さん達もそうです。
 又、国も 箱物行政で美術館を作って、箱を作れば中身が必要になるわけですよね。そこに海外や何かから高いお金を払って二流の作品を掻き集めて、コレクションしていった。一都市一美術館建築ブームの中で公共事業部の予算によって日本人作家の作品が一過性的に購入されていったにすぎなかったのにあたかもそこにマーケットがあるように錯覚したんです。それは擬似マーケットだったんですよ。

  例えば当時の若いアーチスト達の双六があるとすればギャラリーで個展をやって美術館にコレクションをされて、最後に日本の美術館で個展ができれば上がりみたいな、そういうような形でしたよ当時のアーティスト達の多くは、、、。
  結果的に美術館建設ブームが去ってひととおりコレクションすればもう買わないと・・・21世紀になってそれこそ予算も無い時代になってきたから美術館に作品が売れる事も無い。
 まあ、いい時代になったわけですよ。そこで本当の意味あるのものが問われる時期になった。丁度そういう風な時期に昭和40年代生まれの面白い発想を持った人達が出てきた。彼等は前の時代は関係無いし、欧米に対するコンプレックスが無い世代です。この連中はいいんじゃないですか。我々やその前の世代がやってきた事はインターナショナルに対してはコンプレックスの裏返しですからね。彼等はそれが無いから堂々としている。こういう層の人達から面白い作家がでてくるんです。それがいずれ向こうの連中(海外)が作品を欲しくてしょうがないってくるかもしれないし・・・そういうなかでも会田は特異な存在かなっと思っています」

・・・最後に三瀦さんのモットーはなんですか?

 「無いですね。僕は毒のままで毒でいられ続けていられたら、作家は狂気を持ち続けてくれてたら。そういう感じかな」

どうもありがとうございました。

 サブカルチャーとカルチャーの境が無くなってきているというのは判るような・・・。
三瀦さんのインタビューに
「・・・引かれ者の小唄みたいに 『チキショー』 と思ってるんだけどね。」
というくだりがありますが、ウチの Web master に口頭で訂正を頼んだら、「三匹の子豚」 は知ってるけど 「ひかりモノの子豚」 は知らねーなーと・・・。そんな子豚が居たら恐ろしいよ。やっぱりウチはカウンターカルチャーだわ。

ミヅマ・アート・ギャラリー http://mizuma-art.co.jp/

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