縁は異なもの。2000年の春に拝見した展覧会が
CASSHERN と結びつくなんて・・・。 「びっくりしました。まだあの展覧会情報掲載しているんですね。」 絵画のような映画 『CASSHERN』 (VFXスーパーヴァイザー) / DVD ガニメ第2弾 (絵画と演出) / 愛知万博 押井守館(企画コンセプト) / ゲーム 『弟切草〜蘇生篇』 (絵画 総合監修) などなど・・・・・ へぇ〜。凄いねぇ〜という事で早速インタビューをお願いする事に。
実はオサルス、木村さんには悪いけど、CASSHERN という映画がどんな映画なのか全然知らなかったんですよ。ストリーも配役も何も知らずにぶっつけ本番。もっと本音をいえば木村さんと会うその日まで CASSHERN を見ることになるとは思いもしませんでした。(申し訳ない。) そして何がなにやら解らずに見た CASSHERN は
“ ロシア・アバンギャルドとダダ ” でした。 「見た人が、真っ二つに分かれるんですよ。すごく感激したという人と、なんじゃこりゃという人と」 と木村さん。 確かにyahooユーザーレビューを見てもまっぷたつに意見が分かれているのは驚き。 でもこの映画をアートの視点から見れば 『人類であるからには・・・必ず芸術の衝動がある・・・死ぬべき運命を背負った人間の宿命に挑戦する独特なやり方が・・・』
(http://gaden.jp/info/2004a/040324/0324.htmから抜粋) 今日は、CASSHERN のVFXスーパーヴァイザーの木村俊幸さんにお話をお聞きしました。 ところでVFXスーパーヴァイザーとはどういうお仕事なんでしょうか。
・・・すごく手間が掛かっているんですね。 「今回の人数は30人くらいしかいなかったんですけど、ハリウッドは2〜300人が関わるんですよね」 ・・・え! 凄いですね。その世界観というのは、紀里谷監督と木村さんが話をして決めるという事ですか。紀里谷さんのイメージを木村さんがサポートする形なんですか。 「それもあるけど。今回はコンセプトの案を出し尽くして、検討していくというやり方です」 ・・・木村さんのコンセプトは? 「抽象的ないい方だけど、もう一つの自分の夢。例えば君と僕はつきあっているけれど、もうつきあえない。でも違う所ならばみたいな・・・」 ・・・場を変えるという事ですか。
だからこの映画もお金も掛けられない。場所も殆ど無いし、人も少ないけれど、ちょっと考え方を変えれば出来る事じゃないのというのがはじめにあったんです」 ・・・そうなんですか。木村さんは1969年生まれ、1973年に放映されたアニメ 『新造人間キャシャーン』 を見て育った世代ですよね。実はオサルスは竜の子プロの絵が嫌いだったから見た事がないんです。この映画はまずキャシャーンがイメージとしてあったわけですか。 「僕も、紀里谷さんもそうだと思うけれど、アニメの 『新造人間キャシャーン』 の映像のなかに、こんな小さな隙間から見た、ナチスドイツのような動き方をしたロボットの行進の、圧倒的なアングルのもの凄く怖い場面があったんですよ。それをずっと覚えていたんです」 ・・・強烈な印象だったんですね。でもこの映画を見て私の感想を一言でいえば、ロシア・アバンギャルドだと思ったんですが。 「それはありますね。僕が尊敬しているマリオ・シローニという画家がイタリアにいるんですけど、彼はファシズムに利用されてしまいましたが、寓意に富む優れた壁画や油絵を残しました。 ・・・でも 『あしたのジョー』 もでてきますよね(笑)。クロスカウンターをしていたような。 「僕らの世代のものを全部つぎ込んでますから(笑)。美輪明宏 も入ってますよ。出てくる時に、長せりふで舞台劇のオペラのように出てきたり。 ・・・そういえば出てきましたね。でも1909年のイタリア未来派宣言から第一次大戦渦中のダダ、1917年のロシア革命前後のロシア・アバンギャルドの流れ、ずっと戦争が続いていた時代の美術運動がビジュアル化されて全編を貫いているせいなのか、最後に希望といわれても、見ていてあの暗さは『なに』みたいなペシミスティックにしかなれない気分を味わったというか。
・・・オサルスには娯楽的な普通の映画よりも、美術の流れを見ているようで面白いんだけど、今までの美術の概念はオリジナリティを絶対視してきたじゃないですか、でもオリジナリティというのは曖昧なもので、絶えず反復しながら時代を乗り越えてきたような感じがするんです。 「全体に漂うイメージは、ロシア・アバンギャルドとかダダとかあっても、僕らから見ればペーパーなんですよ。だから僕らが美術監督さんと、心の中で 『合い言葉』 にしていたのは、ポチョムキンぽいものにしようねって」 ・・・あ! それ解った。だってエイゼンシュテイン以降の映像表現等を通じて広く浸透している素はダダだものね。 「映画のはじめの街のなかにかけられているポスターは自分たちで作っているんですが、こういうポスターに、こういう街。それはハリウッドとは全然違うベクトルで作った、街なり世界観の特撮をCGでやってみようという事なんです。 ・・・そういえばロボットの切り絵みたいなシーンが入ってますよね。 「はじめ工場も切り絵だったんですよ。あまりにもペーパーすぎて、コラージュでロボットが作られて、そのあとロボットはCGになるので、見ている人は錯乱するだろうと、迫力の面も考えて3Dに置き換えたんです。そのずれが出来きっていない部分がいくつかあるんです。ポスターのようにパッシパッシと入るのはまさにそういう狙いなんです」 ・・・でも随所にツェッペリンが加味されていて。 「感じましたか(笑)。絶滅してしまったレコードジャケットの思いというか(笑)。何となく全体を漂っている不気味な黙示録なのか宗教なのか解らない雰囲気はツェッペリンのレコジャケの流れというか」 ・・・この作品を日本で作ったというのはいいですよね。でもハリウッドに行こうとは、思わなかったんですか。
・・・やはり納豆とご飯が無ければイヤみたいな事ですね。そうすると木村さんのモチベーションを一言の言葉にするとどういう。 「それは難しいですね。全然答えにはならないかもしれませんが、 「正直、合成の部分がわからない」 ・・・実写の強さと合成の面はゆさとは違うように思うから、映像詩を出すのは難しいように思うんだけど。 「僕はちょっと前のアンダーグラウンドのリアルなセットを使ったものも好きなんですけど、だけど俺らはどうなのかと・・・俺らの世代はどうにもならないほどアニメで育っているし、殆どリアルに伝わってくる事って、本当に僅かな情報ですよ、そういうなかでドーンと実写を見た時にそれがリアルに見えているのかって事です。 ・・・解ります。
・・・最初からそのイメージがあったんですか? 「はじめからありました。でも、まあ、皆との話し合いでロシア構成主義の美しさとか、ドイツ表現主義のカリガリ博士 (1919年、ロベルト・ヴィーネの作品。セットやカメラアングル、衣装やメイキャッブにいたるまで極端なデフォルメが施され、あたかも舞台劇のような構成の中に、観客に画面の内側の真実を読み取らせようとする極めて芸術性の高い作品) が何故人々に理解されなかったのかとか、いつも色々話し合いながら進めていったんです」 ・・・なるほど。少し変な質問ですが、貧乏だったとさっきおっしゃってましたが、今はお金は入ってくるようになりました? 「昔と比べれば入るようになりましたが、今でも巨大な生活のズレはないですね。正直不安なケースがまだありますよ。今でもまだ一歩足を踏み外せばバイトの人生が待っているんじゃないかと。 ・・・いいじゃないですか。生活するのに足りるだけあれば、オサルスはまったく金になりませんから諦めてますけど (笑)。 「例えば、紀里谷さんは奥さんもそうだけど、お金に一切苦労はないじゃないですか。彼と美の話をする時は対等に話すけれど・・・以前紀里谷さんから、『木村君、何の仕事しているの』
と聞かれて 『洗濯機のCM』 の仕事をしていると答えた事があったんです。 僕は思うんですが、色々な芸術家が昔はパトロンを持って、自分の美を追究できた。貧乏生活からあっという間に抜け出してそれを追求する運命にあった。そういうなかで芸術というのは、一切お金に換算出来ないところで美が絶対的に存在している。それにも拘わらず、僕らは生きて、発表してうんこしなきゃならない状況なんです。だから考えさせられますね。 ・・・あの映画自体がそうですね。自分の立っている場所で、そこで考えるしかしょうがない。どうにもならないしね。 「そう、どうにもならない(笑)。そういう事なんですよね。あの映画を見てメインスタッフはお金持ちで生活も安定しているんだろうと、『俺ら食っていけなくてさ』 と、ボヤいている若者はいっぱいいると思うんですよ」 ・・・私も若くないですが思いますよ。 「俺も試写会見て思うもの(笑)。でもそこで働いていた20代の子達は、今だってバイトしてるかもしれない奴らだけれど、そいつらにお金が還元されて生きていける世界にしたい、美術でも食っていけると。それにはまず俺を金持ちにさせてくれと(笑)、俺が金持ちになれば皆金持ちになれるよと」 ・・・それは村上隆と同じかもね。でも絵だけで食べるのは難しい。CGだとまだ食べていけるんじゃないですか。
・・・どんな絵を描いているんですか。 「僕のなかで未だに分裂するところがあるんですが、現代美術の鋭利さと、かっこよさと、コンセプトの凄さに打たれながらも、でもペインティングをしたいという気持ち。でもペインティングを出すと、もう終わっている感じがするので、世間的にいやだと思っている気持ちとか、20代にそこら辺でグチャグチャして変なオブジェを作っていたんですよ。その時は廃材からプロジェクターで画家の運命をプロモーションビデオで作ったりして、画家という者を客観視しよう、客観視しようとしていたんですよね。 ・・・絵描きというのは、大学を出ようが出まいが、貸画廊を借りて作品を発表していようが、それだけで絵描きになれるわけじゃないから、それはそれ一本を継続出来るか出来ないかだけだと思うんだけどね。 「絵を描くと埋没しちゃうんですよ。だから駄作なのかなと思うけど、自分のなかで外せないから、自己満足といわれようが描き続けるんだろうなと。映画とは別にね。
・・・二つのものを同時にやるのは大変ですよね。映画は時間の流れを見せるもの、絵画は 『瞬間か永遠か』 、だから時間の流れは見れないわけでしょ。でも絵は一瞬で強さとか感じるんだから凄いかもしれない。 「だから絵は素敵なんですよ。絵の凄いのは拒絶ですよね。バーンとそこにあってもう見なくていいよとなるか、見入ってしまうか。眼を外しても思いついたらまた見に来てしまうみたいな・・・
『瞬間か永遠か』 、それが絵のなかで起きているという事を、つねに僕らの脳のなかでそれを判断しているじゃないですか、凄い事だと思いますね。 ・・・あの映画は最後のエンディングのクレジットが終わるまで誰も絶対立てないというか立たせないんだよね(笑)。
・・・象徴みたいなのが場面場面で出てくるんだけれど、もっと簡潔に最初に解れば見るのは楽だったと思うけどね。 「観客もトイレでたむろしてうだうだいったり、灰皿を蹴ったりするのは、簡潔かと思って見にいったら簡潔じゃないし、本当に凄いものを残してくれるのかいえば陳腐な戦争反対だったりするし、じゃあ戦闘シーンを見せてくれるのかっていえば前半の中頃で終わっているし」 ・・・そういう意味ではそうだけど、私があの映画はダダイズムが流れているといったのは、凄い哲学的な映画だと思うから、あれを娯楽として見ると結構つらいですよ。 「3Dかと思えば二次元に見えてきたり(笑)。あれは多分何をしていたって最後は俺らも死ぬし、死ぬ前に俺らが疑問だった事。例えば存在の意味。意味なんてないんだけど、でも人を好きになって意味を考えはじめたら、それは人々に通ずる。それが最後宇宙にいってしまうわけの解らないエンドになったんだと思うんです」 ・・・あの手の映画があんなに流行っているのが不思議だよね。大抵はマイナーで終わるタイプの映画だと思う。 「配役や音楽はA級だけど、ノリはB級なんですから。だからむかついて理解出来ないものかもしれないですね」 ・・・でもこの映画は紀里谷さんと木村さん達のまぶたに残ったものが集約されているから、見える人には見られるし見られない人には見られないんじゃないかな。 「映画は拷問だといったのは、イヤだったらそこで立てばいいんだけど立ない状況がつねにあるんですよ」 ・・・なんか全体主義的なのよね。でもストリーがどうなるのか見ないで帰るわけにはいかないからね。
・・・そうとう揺さぶったんじゃないですか。 「寝ようと思ったら殴られ、座ろうと思ったらケツが痛いみたいな (笑)」 ・・・結局最後はなんでしょうね。木村さんと一緒に見なかったらどう考えていたか解らないけどね。もう客観的に見られません。 どうもありがとうございました。 映画のカタログに紀里谷さんが yahooユーザーレビューのなかに 『予定調和を求める人は観るべきでない』 という書き込みがありましたが、生きていくのに先の見通しや思わぬ変化が起こるのは当たり前ですよね。映画を見終わったあと、木村さんが 「この映画は15歳以下の子供達に見て欲しいんです。」 とポツリとつぶやいた言葉が印象に残りました。 ロシア革命前後のロシアで起こった美術運動は純粋さを求めて起こったものだから、それが世界に波及したのを考えても
(手塚治虫のアニメの火の鳥はロシアの 『せむしのこうま』 に影響を受けていたとか)。 木村俊幸 WORKS 資料: VFX studio LOOPHOLE http://loophole.jp/ HOME PAGE http://members3.jcom.home.ne.jp/zizimomo/index.html 『デザインの現場 6月号』 CASSHERN ( pdf ) DVD ガニメ第2弾 (絵画と演出) http://www.ganime.jp/news.html 愛知万博 押井守 館 (企画コンセプト) http://www.expo2005.or.jp/jp/venue/pavilion_private_h.html ゲーム 『弟切草〜蘇生篇』 (絵画 総合監修) |