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オサルスのおすすめランチ ランチdeチュ その115

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パッタイ 800円

町田の老舗 本格派タイ料理 マイペンライ
東京都町田市原町田6-17-1 フジビル2F
tel 042-727-2506
 http://www.maipenrai.jp

「人はみな死ぬんだよ。」と、話の前後は忘れてしまったけれど、あるシンポジウムでオサルスの隣の席の方の発言。その一言は皆わかっていても、『ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを』という在原業平の歌のように感じているもの。
オサルスも段々と年をとってきたので、死ぬのがかなり気になってきたんです。それに死を前提に色々考えると見えて来るものがあるような気がするんだよね。以前峯村さんのインタビューでアンドレ・マルローの 『人類であるからには、文明を形成していないような部族に於いても、必ず芸術の衝動があると・・・死ぬべき運命を背負った人間の宿命に挑戦する独特なやり方が刻印されている』という言葉を思い出すと、表現をする根底には必ず死が念頭にあるように思う。それは決して死を美化するという事じゃ無くて、生きているうちに何が出来るかなんだろうねぇ。

今日はオサルスの隣に座られたのも何かの縁「人はみな死ぬんだよ。」と、いわれた作家の木村リン太郎さんをご紹介します。

木村さんは、2004年6月14日ー19日までGalleryK(http://homepage3.nifty.com/galleryk/)で個展を開催。作品は真っ黒な画面なんですが、じっと見ていると海のような風のような 渺茫たる“気”の動きみたいなものを感じました。こういう作品を制作している方の生き方とはいかに! 聞いてみました。

・・・木村さんは大学を出られてから教員の道へ。今は小学校の図工の先生をされているとお聞きしましたが、何故先生に?

 「これを話すと変だなといわれるんですが、学校の教育は修行だと思うんですよ。学生の時は人間関係が苦手でね。人と関わるのが怖かったりしたんですが、教育実習で子供と出会って、人との出会いは“こんなかたちなんだ”と思ったというか。その時に自分にとっては人間と出会う事は修行であるみたいな気持ちを感じたんです。それで今までずっと続けています」

・・・2002年のDMを拝見するとかなり色彩が豊かでしたよね。2003年から2004年にかけて黒い画面になってきたんですか。

「学校を出てから色を随分使っていたんですけど、愚かな事に自分で耳の鼓膜に穴を開けてしまって耳鳴りが止まらなくなったんですよ。耳鳴りが起こるというのは神経がイライラするんですよね。誰も聞こえないものが聞こえてくるわけだから、そうすると色を使って描いている事が合わないように感じたんです。むしろグレートーンや黒いトーンをのせた方が自分のものに近いなっていうところから始まって、次第に要素がモノクロに、そうすると今までのものが制御されて、本当に自分が伝えたい部分が伝えられる気がしたんです。
僕は人間は全体で生きているけれど、表層とか表面とか僅かの差とかを拘っているなと思うんです。それを求めてしまうところを表せたらなって思っていて、同時にキャンバスに描かれたものを物体としてみると、そこに一つの“場”を形成して、そこで考えてもらう。思考してもらう。そういうものを作れればいいなって、その為に自分は矩形を選んで表現しているんです」

・・・絵を描くのも修行のうちという事でしょうか。

「描けば描くほど自分のなかで不思議とあきらめていくんですよ。絵を描く動機はよくわからないんですけど、自分は学校を出てすぐは具象を描いていたんです。それは凄い勢いで“自分がそこに立っている”事だったんです。あまりにもそれが強かったので気持ち悪くなってしまって、よく絵描きが言うじゃないですか、“一本の線のなかにも自分がいる”って。一本の線を引いてもまだ自分が立っているんですよ。でもそれは違うぞと、本当に自分が求めているのは色の配置の感覚だったりとか、そういうものだ。それを削ぎ落としていく事が僕の絵の作り方なんだと。

 例えば生きていればいい生活したいとか、お金が欲しいとか色々な欲望があるじゃないですか。そういう欲望がうんと高まった時に、自分の欲求は本当は何だろうかという事が自分の内側でこみ上げてくるんですよ。俺はいったい何の為に生きているんだろうという事がグッと迫ってくると、絵に向かいたくなってくるんです。そして描いていくと、これは自分と違う、あれも自分と違う、こんなに一杯欲望があってもこれもあれも僕ではなくて、本当の僕はこれしかできない。この部分なんだ。しかしそれは自分を超えたものだ。そういうあきらめが・・・あきらめていく過程のなかで出来上がってくるというか見いだしていくのが“私”なのかなと思っています」

・・・絵は描いている本人が作品に出るといわれていますが、それは描くという行為によって“自”ではなく“他”と向き合うから“自”がわかるんじゃないかと思うんです。又、“自”という意識だけで作品が出来上がるのでは無く。意識の下にある無意識の部分が浮かび上がって来るというか。混沌としたなかから何かが生まれるんじゃないかと最近思うようになりました。だからある部分で意識を超えないと出来上がってこないのではないかと思うのですが。

「僕はね。例えば空間構造とか空間構成とか、今回の展示であれば水平の表層をつかみたいという部分と物体性の関わりで“場”を作りたいという部分。もちろん造形的な意識は片方にあるんですけど、そういう造形意識とともに作品のなかに見いだしていくもの。
例えば僕の場合は一元的であって欲しいとは思わないんですね。色々な入り口があって僕の絵から色々な入り方が出来る。その人の思考とか考え方をその場で考えてもらえる。哲学してもらえる。そういうものでありたいというのを常々思っているんです。
自分が芸術を作りたいと思うその内側にあるのは、芸術でも自然でも何でもそうなんだけれど、そういうものに接した時に、例えば若い時なら若い時、今なら今、また、全く違う答えが返ってくる。それがその深さだと思うし、芸術のもつ力だと思うんですよ。その面では僕は失ってあきらめていく向こうにある何か。そこにこそ本当に開かれたものがあるんじゃないかなという感じをもっています」

お待たせしました。パッタイ(800円)とクェッティオムッサブ ( レタス載せのミンチあんかけビーフン800円 )に生春巻でございます。

木村さんのお薦めは町田のタイ料理のお店。
「ここはタイ人がやっていて、日本風にアレンジしていない味が楽しめますよ」

 こちらは6年前に町田にオープン。タイ東北部イサン地方の田舎料理がメイン。
店長のサティットさんが町田でタイ料理を食べたいのにレストランが無く、不自由な思いをしたのがオープンのきっかけなんだそうです。
今日は店長さんが留守らしいので、写真はアンさん。バンコク・トンクンレストラン出身の天才コックだとか。
味が楽しみでしょ。

パッタイとは、タイの庶民が食べている海老入りタイ風焼ビーフンの事。まずはレモンをかけて、砕いたピーナッツをまぶしてと・・・かなり辛いけどタイ料理独特の甘酸っぱさとマッチして美味しい。この黄色い細切りにしたものは何かと聞くと、何と“たくわん”なんですって、たくわんがフルーティーな味がするとは思わなかった、これが砕いたピーナッツと不思議と合うんだな。もやしやにらなど、野菜も豊富で栄養も量もたっぷりです。

木村さんにご馳走して頂いた生春巻(ポピアソ750円 )は、ライスペーパーからにらがちょこんと顔をだしているのが可愛い〜。エビとキャベツの食感が絶妙で、ボリューム感ありでGOOD。ごちそうさまでした。

しかしタイの方は国を大事にしているせいのか仏像や国旗、王室の写真などなど店内のディスプレーが凄いですね。日本風にアレンジしていないのは、独自のポリシーがあるから、そこに日本人は気概を感じるのかもしれないね。

・・・教員をされていて作品を制作するのはたいへんではないですか。

「二つを一緒にやるのはたいへんです。勤務の無い日はあたり前ですが、帰ってきてから二時三時まで描いて、翌日学校に行って目をカッと見開いて授業するんですからね。
短い時間でやり遂げるのには時間の感覚を変えるしかない。時間はあるようだけど、時計で区切っているだけだから、自分の中で直せばいい。それは人様が一時間あれば三時間の感覚に、夏休みが一週間あれば一ヶ月の感覚にとらえ直さないと作品が出来ないですからね。年をとると一年間が短く感じるじゃないですか。それも長く感じるように自分で調節するんです。忙しければ忙しいなりに短い時間に集中しなきゃならない。それを僕は超集中力と名付けています。
以前GalleryKの宇留野さんから『木村君、社会とのヒリヒリするような接点からしか芸術は生まれないよ。天才なんていない。表現は誰でも出来る。社会とのヒリヒリした接点からしか出てこないんだから、がんばれよ』といわれた事があります。それが凄く心に残っているんです。だからがんばるというか・・・。
でもね。その後で、僕が“修行です”といったら『修行ならばあがる時があるのか』と聞かれたので“あがりたいと思ってます”と、いったんですけどね(笑)」

・・・ほぅ。

「実は前回もそうですが、今回の展覧会も100号4枚、50号6枚、20号・・・もの凄い量を描きました」

・・・凄いですね。

「宇留野さんから『こんなに飾ってもしょうがない』といわれ、運送屋さんから『こんなに持ってきてもこれしか飾らないの』といわれ“これは空間を考えた結果なんです”といったんだけど・・・僕はもの凄い量が出てくるの。だから自分の欲の深さを感じて怖いんですよ。だから打ち消そうとするんです。カッコつけていうわけではないけれど、二時三時まで絵を描いているじゃないですか。その時ね。魂で命を削っているという気がしてくるんです。自分の命を魂で削っているんだなっていう感じがしているんだけれど、でも何か作りたいと思うんだよね」

・・・なるほど。ところで「人はみな死ぬんだよ」といわれていましたが、死というものに向き合った経験がおありなんですか。

 「幼い時に病気になった事があって三歳の時から小学校を卒業するまで病院に通っていたんですよ。そうすると病院で辛そうな人達を一杯見るじゃないですか。これがイメージとしてあるのか、子供の頃から死というのが身近にありました。人間はいい事があると途端に足を引きずるように病気になったり、けがをしたり感情的にもつれたりとかするじゃないですか。僕は最初スナイパーと呼んでいたんだけれど、僕は宗教とかはまったくやっていないんですが、神様から狙撃されるイメージが絶えずあって、それを超えたい気持ちもあるんです。だから絵を描けば描くほど“自分は死ぬんだ”。“必ず死ぬんだ”というものをぶつけていくそういう感覚はありますね」

・・・わかるというのも何ですが、私も死ぬもんですから。

「そうだよね。皆公平に死ぬんだよね。だからそれをあまりいっても恥ずかしいだけなんだけど(笑)」

・・・まあ、死ぬ時がくれば死ぬわけですからね。

「僕ね。デレク・ジャーマンが凄く好きで、落ち込んだ時は『エンジェリク・カンバセーション』のビデオを見るんですけど、あれはいいですね。それでね。彼の“クロマ”という本を読んだんです。そのなかのエピソードに、古代ギリシャの画家の名前が出てくるんですよ。大体ギリシャ時代の彫刻は、ローマ時代の模刻じゃないとなかな出て来ないじゃないですか。絵画もあまり無いんです。で、無かったのかと思うと作家の名前だけは残っているそうなんですよ。でも作品は残って無い。僕はそれが読んでいて面白いと思ったの。
それはね。名前を残したいとか作品を残したいとかじゃなくて、作品って何なのか・・・表現するという事は何か、例えばそこでお金儲けをするとか、もしくは自分の作品が世の中に残るとか、確かにそんな色々な欲望を否定するつもりはないけれど、それ以上に、ゼウクシスとかアペレスとか、パラシオスという名前しか残っていないけれど、そういう作家がいたんだと知るだけでね、彼等がどんな作家かわからないけれど、遠い向こうに生きた証があるんだなっていう感じ、ある面で表現というのはそういうものであって欲しいと思う。例えば三百年後に僕の作品を見た時に賞賛されたいというのでは無くて、自殺したいと思った人がやっぱり死ぬのをやめようとか、そんなような出入り口があってもいいだろうし、また逆の出入り口があってもいいと思う。そんな存在になればいいけれど、そんな事を願って作っているのは変だから、だからそこのところだと思う。

ある意味水みたいなものかもしれない、流れていくけど溜まっていく、溜まっていくけどギリシャ時代の絵描きのように水蒸気になって消えていく、そういうものを体現して、あったんだなと思う事。それが人間の人生の流れのなかでの存在の証みたいなものだという気がするんです」

・・・存在の証ですか。勉強になります。結局、人でも作品でも出会いは一期一会なんだなと、最近本当に思うようになりましたから。

 「カフカが作家になる為には、第三者の目で辛く見る必要があるんだといっていますが、最近描いていてそういう心境にはなりましたね。今回の個展の作品はちょっと前に完成していましたから、会場に持ってきて150号は直接入らないからはがして、又組み立てると、全く自分とは違う友達ともう一回出会う感じ、そういう感覚で自分の絵に接しました。生まれてしまったものは、全く違う誰か。あ、どうも! みたいな感覚かな」

・・・なるほど。ありがとうございました。

木村さんとお話をしていて、私も先日読んだ本を思い出しました。
そこには、ボードレールが
『創りあげられた作品は、必ずしも終わってはいない。終わった作品は必ずしも出来上がっていない。創られていない。』
と、これを受けてメルロ・ポンティーは
『どんなに出来上がったように見える作品でも、事物のように、それ自体として存在しているのではなくて、見ているものに働きかけ、彼にその作品を創り出した動作を、もう一度くり返させる。』
と、いっていたんです。

オサルスは、どうしても今まで描かれた作品の背後に隠れている意味みたいなものを読もう読もうとしていたものですから、一元的にしかものを見ていなかったのではないかと深く反省。まあ、反省はサルの得意とするところだけれど、見る側というか読む側も創造に参与していく姿勢、それが生きるという事なのかもしれないですね。

最近オサルスも少し悟ったでしょ。あまりに貧乏なので、神様スナイパーからは慈悲を恵んでもらっているのかもしれないし『本来無一物』と思わなきゃやってらんないからね。

 菩提、本(も)と樹無し、
 明鏡も亦、台に非づ
 本来無一物
 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん

死ぬまで修行であがりがない。哲学だなぁ。

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