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オサルスのおすすめランチ ランチdeチュ その127

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ステーキランチ 1300円

ダイニング 葡萄の樹
東京都中央区銀座1丁目4番地6号 第一ナスダ銀座ビルB1
TEL 03-3567-7550

 9月の上海のとき約束した取材に、Zeit-Foto Salon へ行ってまいりました。
え! なに忘れた? も〜。
お忘れの方はこちらをご覧下さい。(http://www.gaden.jp/info/2004/040927/0927.htm) 思い出したでしょ。

実はひとつ訂正があるんです。
「今回の Mama dollのシリーズは、光ファイバーを使って、21組の母子の顔を重ねた虚像を制作されています」
と書きましたけど。
あの時オサルスは、鈴木涼子さんの個展だとばかり思い込んでいたんです。
 でもこの展示は中国のキュレーターの方の推薦で、北京在住の王強さんと鈴木さんのコラボレーションだったんですよ。王強さんがスクリーン担当で、鈴木さんがDVDを担当。あの時は何故光ファイバーなのか合点がいかず、日本に帰ってからやっと納得。オサルスの迂闊さは、今に始まった事ではないけれど、申し訳ない。

今日はお約束通り鈴木涼子さんにじっくりお話をお聞きしました。


Ryoko Suzuki Mama Doll - home light, 2 - 27, Nov. 2004 / ZEIT-FOTO SALON Corporation.

・・・上海で拝見した Mama doll のシリーズは、微妙なブレが見えなかったのでイメージが重なっているとは思いませんでした。光ファイバーは裏側から見ると光がバァーと目に入って凄くきれいなんですけどね。まさかコラボレーションとは知らなかったんです。ただあの場で、ご自身のコンセプトが伝わりづらかった事は、ストレスになりませんでしたか?

 普通の展覧会であれば自分のコンセプトが100%伝わるように突き詰めるんですが、今回、場所も上海での展示、はじめてのコラボレーションであり、しかも組むのが中国のアーティストであるという、そういういろんな条件が重なって、普段の自分の展示とイコールではなかったので、反対にそれが良かったのではないかと思います。
元々 Mama doll のシリーズは札幌の芸術の森美術館で展示されたものです。
基本的に上海も同じテーマであったのと、私自身このお話が来なくても、もう少し続けてみたいと思っていたのです。
 ですから最初9組だったのを、上海では21組に増やしまして、今まで続けてきた延長で全然違和感がなく出来ました。別なテーマで提案されたりしたわけではないので、とても恵まれていたと思います。
いい作品を創るのは当たり前の事です。
さらにそれ以上のものを、二人が組む事で生み出せたらいいなと思っていました。
私の作品を彼のスクリーンに写して見るのは、今回のようなチャンスを与えられないと多分持つ事が出来なかったので、ある意味自分のなかでも楽しもうと、発想を切りかえていたんです。そういう意味では貴重な経験だったと思います。

・・・しかし上海ビエンナーレは来館者数が多くて圧倒されてしまい、殆ど何が何やらわからなかったんですよ。毎日あんな感じだったんですか。

 オープニングは特に多かったと思います。でも毎日あんな感じでしたね。前回のビエンナーレは、キュレーターの方から20万人以上入ったと聞きましたが、今回の人出を見ると、あながち嘘ではないなと思いました。

・・・そうすると美術関係者や学生だけではなく、一般の方もかなり見に来たという事ですか?

 そうですね。日本の美術館との違いを感じたのは、小さい子供を連れて家族で見に来たりしても、親が静かにしなさいとか、色々規制をしないので、子供達もきゃきゃと楽しみながら見ているんです。ある意味お祭り騒ぎの一貫として人が来るので、入場者数は日本の美術館の比じゃないなと思いますね。あの人の多さは、こちらがエネルギーを持っていないと圧倒されますね。

・・・平気でみんな写真を撮ってますからね。日本はプレスで許可をとって撮影しても腕章をしていないと怒られますよ。本当に上海は大らかなので驚きました。まあ、全部ではないけれど、そういう自由さは日本も必要かもしれないですけどね。

 日本の美術館の持っている一種窮屈な感覚よりも、上海ビエンナーレの大らかな空気が吸えた事は楽しい経験でした。

・・・かなり蚊に喰われたと聞きましたが。

 まさか虫除けのスプレーを持っていかなくても大丈夫と、置いてきた事を泣きながら悔やみました(笑)。

・・・たいへんでしたねぇ。
私は鈴木さんの作品を2002年に展示された(4人展市川美幸、鈴木涼子、張大力、洪磊/ツァイト・フォト・サロン)ANIKORAから拝見しているんですが、ずっとあのイメージで制作されているのだとばかり思っていましたけれど、上海で頂いたリーフレットを拝見して発表される作品ごとにイメージが変わるので驚きました。

 作品を制作する前に、自分が何故その作品を今創らなければいけないか、自分の中で整理してからでないと進む事が出来ないんです。それにはどんなメディアを使うのがベストか、私は写真から入っているわけではないので、別のものを使う事も可能性としてはあるんです。ですからその中で一番適しているものを選ぼうと思っています。

 基調になるテーマが一本あるんですけど、それのバリエーションで作品を制作していくのがあまり好きじゃないので、ひとつ自分の中の表現を出しきったと思ったら、自分をある程度オフにして、ゆっくり何を撮りたいのか、何を創りたいのか、どういう問題意識を持っているのかという事を考えるんです。確かにその時によって求めている自分のテーマとか、気になる問題とかが作品に強調されると違うものに見えるのですが、基調になっているものは変わっていないんです。

・・・その基調になっているテーマとは?

 基本的には人間に対する興味です。最初は私自身の探求だったんですけれども、最近は私自身というよりは、人間全体に対する興味。人間が作り出した社会だとか全てのものを包括しています。その辺は全く変わっていない事なんです。

・・・1999年のシリコンを使ったFaceの作品から2001年のBindの作品にかけて、かなりご自身を追求されていますね。

 私は元々版画の学校に行っていたんですよ。
ですからはじめは版画を発表していたんですが、行き詰まってしまって、自分が何をしたいのか悩んでいた時期 がありました。
いろんな事を習得すると、考えないでも段々そこそこの作品が出来てしまうようになるんですよね。特に版画は技巧にたよる傾向があるので、ある時何も考えないで版画を創っている事に気がついてしまって、自分が自分でどうしようもなくなったというか。何をしているんだろうと思い悩みました。
それを抱えながらぐちゅぐちゅ凄い勢いで自己に向かって邁進していったというか。

・・・そうすると作品の切っ掛けは?

 顔のシリーズは、人が自分を鈴木だと認識する入り口である表象としての顔を、見極める事から作品に取りかかろうと、何をもって人は私を鈴木と判断するのだろうかと。
自分の中では内面的なものを追い求めるとか、そういうのをかっこよく版画で語っていたつもりなんだけれど、それは自己満足の世界だったんです。
それで人と最初にコミュニケーションをとる時の入り口に、もう一回戻ってみたいというので顔だったんです。
その後顔から身体に移行していったんですが、FaceからBindにいくのに時間がかかっているんですよ。その時は暗中模索の状態で、結構色々な素材で色々なものを試していた時期なんです。ただ素材の面白さだけで作品を創っても、飽きてしまって作品になっていかないんですよ。それでもう一度原点に戻って、自分自身の成り立ちを考えてみようと。
私は女として生まれて、女として育ってきた。女だと思って暮らしていて、それがあたり前だと思っていますが、実はこれは何だろうと(笑)。

・・・そう考えると不思議ですね。

 月に一度来るものが非情にシンボリックなもので、動物の部分が残っているではないかと。自分達が進化したと思いこんでいても、動物なんですよ。それをまざまざと月1回感じてしまうんですよね。そう考えると今まで煩わしいと感じていた事が、凄く不思議なものに思えて、段々その女性としてのセクシャリティーの部分が、私の中でキーワードとして浮かびだして来たんです。

・・・ Bind のあの豚(?)のヒモを血で染めたというのは本当ですか。

 豚の皮は私の幼児体験でトラウマとなっていたものなんです。血は女性自身のセクシャリティーの象徴なので 、それを二つ合わせて縛って、自分を集結させてみた時に、自分は何を感じるのかどうしても知りたいというか、みてみたくて。

・・・トラウマの体験というのをお聞きしてもいいでしょうか?

 幼児体験は偶然なんですが、私の実家は畑を耕していて、春になると近くの養豚場に堆肥をもらいに行くんです。子供の頃はそこで遊んでいました。
ある日堆肥を袋に詰めていたら、堆肥の山の中に死んでいる子豚がいたんですよ。糞尿の中に死体が捨てられていたのが凄くショックで、それを見た時に・・・種豚が発情して気が荒くなって、鉄格子ごしに威嚇してくる姿が怖かったのを、フラッシュバックで思い出してしまって、糞尿の匂いと鉄のすえたような匂いが、バーと蘇ってきたんです。
ただ、その作品を制作する時に、その思い出が重なったのではなくて、いつでもそうなんですが、その時のキーワードが、結構長い間私の中に眠っているんですよね。眠っている要素と要素が、作品を創る時に目覚めて、その関係性を形にしていくんです。

・・・確かに血は女性自身のセクシャリティーの象徴だと思います。ただ血は壮絶な感情を呼び覚ますような気がします。

 私の中では血は、暴力的なもののイメージは全然ないんです。
Bind は見た目がショッキングなので、暴力的なイメージを持たれる方が多かったんですが、それは作品を制作している時には、全く思わなかった誤算というか。
本当に一個の物質化した自分がその中にいて、縛った時に何を考えるだろう。それを純粋に考えてみたい、見てみたいというのが出発点でしたから。

・・・縛った感想は如何でした。

 何点か顔を縛って撮ったんですけど、首を縛ったのがあったんですよ。体温でヒモがドンドン乾いてくると締まってくるんです。凄く苦しくて、撮り終わって慌てて外しました。凄く痛かったという感想しかなかったんです(笑)。

・・・死ななくて良かったですね。1999年のシリコンの作品も、あの黒いボツボツがキャンサーのように感じてしまって、自分にぐさっと来ました。

 あれはカビが生えてしまったんです。偶然歩いた時に胞子がついて、顔とか洗わないでそのまま型をとったので、私の油を養分として異常に繁殖してしまったんです。

・・・え〜。カビですか?

 自分の養分を知らない間に食べて、それが育っていくのが凄いなぁと勝手に感動しました。

・・・いや〜。上手い具合に生えて良かったですね。

 この時は自虐的な部分もありました。自分を徹底的に潰してやりたい、それで残るものがなければ所詮私のやっている事はそこまでだし、とにかく徹底的に自分自身を洗いざらい出してしまいたいかなり強い欲望というか。そこまで追いつめられていたんですね。版画を創っていた時に、何を自分はしていたのかという反省がもの凄くあったものですから。

・・・作品を制作していくと、手が慣れてしまったり、こういうものだという思いこみで創ってしまう事もありますよね。

 ですからテーマを絞っていこうと。私のなかでは何かに流されて妥協して作るなら、そんな作品は作らなくてもいい。それでしか作れなくなったら、そこで止めてしまえばいいのだからと、考えていたんです。
私の作品は、ある程度気が済むまで徹底的に凄い枚数を撮っているんですよ。自分しかわからない感覚なんでしょうけど、ある時もうこれでいいやと思うと、作品は完結するんです。ですから今の自分が過去の作品に戻る事は無いと思います。

・・・なるほど。その後 ANIKORA のシリーズから Mama doll のシリーズへ変遷されますが、そこがイマイチつかめないんです。

 ANIKORA のシリーズは、社会の中の女性というものとか、私たちが常識だとか当たり前だとか思っている女性らしさとか、そういう風にすり込まれていたものに対する 疑問とか、それを崩したいとか、そういう思いがこの作品の中では強かったんです。あえてそれを見せつける事によって、もっと自分の中でも考えたかったし、この時は虚像の部分で生活している人に対して、ひとつの警告というものがあったんです。

 そのあたりから女性としての母親像は凄く気になっていて、元々テーマとして考えていたんですが、もの凄い重いテーマなので、それに関連するものを創ってはいるんですが、発表はしてなかったんです。
私自身は一卵性親子のように母の影響を凄く受けていますし、精神的にもおんぶしている所がある。それで二人の関係を考えてみたいと、最初は私と母だけの作品だったんです。それを暫く続けていましたが、ある時、他の親子の形もみてみたいと思って、色々なモデルさんにお願いしました。

・・・そうすると、今回 Mama doll のシリーズと一緒に展示されている home light のシリーズで、父親不在になるんですね。

 比較的ストレートなテーマとして出ましたね。この中には父親像がない。家庭のなかには母親と子供達だけがいて、もの凄い強度で結びついている。
どちらかというとこのメッセージは否定的ですよね。
それまでずっと家族をテーマに してきましたから、それが段々重くなってきて、そうはいっても何処かで夢は残して置きたい。
一家団欒のあかりが灯っているイメージがまず出てきたんですけれど、やはり何軒も撮っていくと、それだけでは収まらない何かがあって、DVDの作品を制作しました。
昼間には母親と子供達の笑い声やざわめきが入っているんですが、夜の何秒間になるとそれが全くの無音になってしまうんですよ。

・・・あ! そういえば電話の音が聞こえる。会場にいると Mama doll のDVDの心音と home light のDVDの音がクロスして不思議な感じに聞こえますね。

 本来は別々なので、同時には聞こえないんですけどね。

・・・すみません。話の腰を揉んでしまって。


Ryoko Suzuki Mama Doll - home light, 2 - 27, Nov. 2004 / ZEIT-FOTO SALON Corporation.

 ですから単純にあかりが灯ってハッピーライフがあるのでは無くて、その中でいろんなドラマがあったり、いろんな問題があったり、当然楽しい部分もあるんですけど、それが昼夜のサイクルで繰り返されるんです。

 home light のシリーズは写っているのは箱としての家なんですけど、私は全然家を写しているという意識がないんですよ。
人が何故その土地を選び 、何故こういう形の家を造り、どういう花を植えて、どういう生活をしているのか。
興味はあくまでもそれを作った人間であり、中に住んでいる人達なんです。
だから普通に生えている花を、私は撮ろうと思わない。
例えばおばあちゃんが、一生懸命育てたお花の思いがあったら撮るんですけど、同じものを撮っても、見ている視点が違うのかなと思います。

・・・視点の違いとは。

 少なくとも自分の作品というのは、何かのメッセージを伝えたり、見る人に何か問題喚起をしたり、自分の発表した作品で、少しでも感じて欲しい部分があるので、単に綺麗な自然を見るというのとは違うというか、そこにどういう風に人間が関わってきていろんな社会のシステムとか、こういう視点から再考して欲しいとか、そういうメッセージを常に考えながら、作品のテーマを作っているからです。

 家族像も、私たちは当たり前のように、お父さんがいてお母さんがいて子供がいてと考えますけど、その制度自体も一応現代になって作られた制度なんです。考えてみるとそれは当たり前の姿ではないし、本当に必要かどうかもわからない。だから当たり前だとか既存だとかいう事を根本から考え直したいなと思っています。

・・・なるほど。

 家族というシステム自体の再考を促すというか。本当に必要である事を感じて、家族というシステムを持っているのと、単に皆がやっているからとか、何も考えないで、疑問を持たないで生活しているのでは、多分全然違うと思うんです。
私は生きていく中で、色々な事を考えるのは凄く大事な事だと思うんです。
いつも当たり前で常識といわれている事は、本当は政府なり社会が何かし易い為に、それを私達にすり込みのようにさせている事であって、心地いい事では全然ない事が沢山あると思うんですね。それでいきなり政治運動ではなくて、それをまず自分で考えてみる事。
視点というか、いろんな所に目を開く切っ掛けというのはあると思うんです。
ですから自分の使命は、作品を提示する事で、目を開いてもらう事、問題提起をする事だと思っています。

・・・私は鈴木さんの作品を一言の言葉で表すと、どういう言葉になるか、さっきから考えていたんですが、何故か “極める” という言葉が浮かんだんですよ。最初のシリコンの作品で自分が納得できるまでやり尽くした。次の作品も、また次の作品も極め尽くす。だから鈴木さんの作品のキーワードは “極める” ではないかと思うんです。

 私自身が最近違和感をもつのは、今は情報をとても安易に、何かのキーワードを入れれば、知識だけを自分のものに出来る時代だと思うんですね。でも知識は自分が体験したものの中からしか生まれないと思っているので、例えば豚のヒモを使う時でも、単にハンズに行って豚のヒモを買ってくるというのでは、私にとって作品制作のはじまりじゃなんですよ。どういう中でそういうものを作っているのかを自分で感じないと作品は成立しない。
Bind の作品も、豚のなめし工場まで足を運んで、工場の中を見せてもらって、どういう状態で作っているのか、どういう場所で作っているのか確認したんです。
実際にそういう所に行って、制作者の方にお話をお聞きすると、全く違うものが見えてくるんです。それは作品には直接出ないけれど、足を運んで見たものたちが、自分のなかで咀嚼されて、最後に集約してくるんです。

 私の作品の世界はとてもシンプルなものだけれど、いかにそこまで思い入れを持って、ひとつひとつ自分の体験として作れたかが、イコール作品強度になってくると考えています。その辺は試行錯誤しながら、完成までには試作品をいっぱい作りながら、やっとひとつまみの“これが私のやりたかった事だ”というスタンスをずっと守り続けて維持しているんです。

・・・足を運んで見たものたちでないと、自身のなかで咀嚼されないというのは凄くわかります。美術において、見方のセオリーというのがあるように思うのですが、それが私はどうも納得出来ないんです。実際自身で見て何を感じるか。その作品の前で、自身の心の動きはどうなんだという問いかけ、自分だけの体験の中からしか浮かんでこないと思うんです。これは人も同じで実際会って話をしないと、どういう人かわからない。話してもわからない事の方が多い時もありますけどね(笑)。
今回鈴木さんの資料を拝見していて、社会の中云々、フェミニズム云々、そういうラベルが貼り付けてあると、すり込み作用で、そういうカテゴリーに捕らわれてしまう。そうすると閉じられた体系しかイメージ出来なくなってしまうんです。情報だけではわからない。実際に話をしてみないとわからないと実感しています。

 私は言葉を信用していないんです。何故かというと、確かに理解というのは言葉なしでは出来ないと思います。言葉によって理解しているつもりになっているという事は、本当にその言葉が当てはまるかどうかという事を考えた時に、私はそうではないと思うんです。特にそれを人に伝える時には、かなりの部分でお互い違う事を思っているなと思った方がいいと思います。作品というのは、見て色々な事を感じるのは大前提で、その中に私が込めている意味は少なくても押しつけてはいないんですよ。このように感じて下さいというのを、言葉で書いてしまうと、相手にそのイメージを押しつけた事になりますよね。私はそういう意味で言葉をあまり信用してはいないんです。

・・・コミュニケーションをこういう形でとっていても、文章になった時は、言葉が私の頭のなかを通過してますからどうしても意味のズレが起きてしまう。これはどうにもならない事かもしれませんね。ですからここで語っている言葉は私の鈴木さん像なんです。でも出来るだけ、 “今、ここ” の場に、近い状態にするスタンスではいるんですけどね。

 自分の事を自分で語っても多分違いますからね。

・・・そうですね。そこで作品制作には、作家の自分自身のメタ認知が必要になってくると思うんです。外部からまたは内部から、並列的に感覚的に作家の頭の表層に浮かんだものが集約されて、何かの形になるのだとしたら、それを自分自身が認識する事で作品になっていくのではないかと思うんですよ。だからといってその認識もこれだという断定ができないと思うのです。それを作り手も見る側も、これは何だろうと感じる不思議さが、私は美術の醍醐味だと思うんです。

 私は最近思うんですが、これだけ昔からアーティストが世界中に沢山いて、当然私が知っている知らないは別にして、誰かに似ているとか、同じような仕事をしていたり、随分以前から同じような事がされてきていたり 、昔はそういわれると、人のまねをしているのかと思われているのではないかと、気になった時期が少しありました。
でもある時、結局私は自分の中から、出てきた表現として制作はしているけれど、当然色々なものを見て、色々なものを聞いている。
そこで100%オリジナリティーを出せるという考え方自体がありえないと思うんです。
だからそこで誰かの作品に似ているとか、もうこれは先にしているから古いという考え方自体が当てはまらないんじゃないかと。同じ事はありえないと思うんです。言葉もそれぞれ別に感じるように、同じ事をしているつもりでも別になってくる。それが人間がものを作る事だと思うんです。個人個人に焦点を当てていけば、美術の可能性が開けてくるのではないかと、実は凄く多様性があるのではないかと、表面性や表層的なものを見て表現が出尽くしたというのは、実はその人を見ていないからじゃないかと思います。

・・・同感です。個人からではないと美術は絶対に生まれないと思うんです。社会ひとつ考えても曖昧なものだし、実際自分の廻りにある公共性しか見えないんじゃなかと思いますね。生まれて死ぬまでに関わりをもてる人は僅かしかいないだろうし、そこで把握出来る事に限りがあると思います。結局自身が、今、ここにいるという事からしか何もわからないと思うんですよね。

 個人の時代とかいわれますが、元々当たり前の事というか、個人から始まらないものはあるんだろうかと思うんですね。だから表現というのも同じ事だと思います。

・・・では最後にこれからの予定をお聞かせて下さい。

 来年はまた海外での展示を予定しています。

どうもありがとうございました。

 え! ランチはどうしたのかって? 鈴木さんは個展の時には出来るだけ画廊に詰めていたいという事で、お話は Zeit-Foto Salon でお聞きしていました。プロだねぇ。

 鈴木さんは北海道出身、銀座の地理に詳しくないので今日はオサルスのお薦め。鈴木さんはとてもパワフルな方なので、ステーキランチ(ライス・みそ汁・香の物付き1300円)をご用意しました。

 今年の4月にオープンしたばかりの葡萄の樹。カウンターだけの小さなお店だけれど、ご主人山本さんは銀座の某有名レストランで修行をされた方。
肉のブランドは決めないで、毎日その日の水準によって三つ候補をあげてチョイスしているのだそうです。

 因みに今日の肉は、山形産。ラッキー。ステーキランチなのに箸で食べられるのは嬉しいね。親切に切って盛りつけられているのも食べやすい。秘伝のたれは、醤油ベース、タマネギや大根、香草をすり下ろして、みりんなどの調味料で配合されたものとか。お肉にニンニクのスライスを乗せて、たれをつけると、う〜ん。美味しい。

ご主人にこだわりをお聞きすると。

 「いい肉をお客さんに安く提供してあげたい事。原価の許せる範囲で努力をすれば、これだけの肉が出せるという事ですね。うちは家族で営業しているので、余分な経費を極力おさえてがんばっているんです」

今の時代は拡大路線よりも、何が自身で出来るかを考えて生きていくのが得策かもね。

おなかいっぱいです。今日はどうもありがとうございました。

最後に感想を一言。
鈴木さんの作品、ひとつ極めて次に変化していく過程は違う自身に出会う事ではないかと思うんですよ。出会いが作品になっているから、また作品を見た側も、ひとつの出会いを持つのではないかと、自己を開かなければ見えて来ないもの。それは自分じゃないのかと、それは自分探しとかそんな事ではなくて、子供の頃に思った自分とは何だろうという根源的な疑問からすべて始まったのではないかのかなと、オサルスはそう思ったんです。

鈴木涼子 関連情報 2004.11 2004.9 2002.7

ツァイトフォトサロン http://www.zeit-foto.com/ / http://www.gaden.jp/zeit-foto.html

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