gaden presents - gallery / artist / dreamer / exhibition / network

オノデラユキ写真展 2005. 2/5 - 4/17

国立国際美術館 大阪府大阪市北区中之島4-2-55 http://www.nmao.go.jp/

 2004年にオノデラユキさん と「ランチ de チュ」 (詳しくは:http://gaden.jp/info/2004a/040914/0914.htm)でご一緒させて頂いたら、オノデラユキ写真展 (国立国際美術館) のカタログのインタビューの項に website gaden の 名を入れて下さいました。
でもインタビュアーはオサルスじゃなくて、オルサス になってるよ〜。
オルサス ってギリシャ人? 我が名はオルサス。なんちゃって!
 これは勘違いというよりも、まさか自分の名前におサルなんてつけるわけはないと、普通は思うよね。

 今日は、大阪の国立国際美術館のオノデラユキ写真展をご紹介致します。
作家による “生トーク” があるので時間に間に合うように会場に入ると、凄いギャラリーの数。びっくり! それだけオノデラさんの作品が人気があるという事ですね。
普通トークは、講演会形式だけど、作品の前でアーティスト自らが話をしてくれるとは・・・嬉しい。
今日は “完全リポート永久保存版(笑)” です。

まずは担当学芸員の島さんの言葉からはじまり、はじまり。

 会場は三室に分かれておりまして、まず第一室から話をはじめたいと思います。

 今回のトークは講演会形式ではなく、作家に作品の前で直に話をして頂きますので、一方通行にならないように、質問のある方は随時聞いて頂きたいと思います。

 オノデラさんは、1962年東京に生まれ。
一時ファッションデザイナーとして活躍されましたが、ファッションでは自分のやりたい事が出来ないという事で、写真を制作されるようになりました。
当初、自らオブジェを作って写されていましたが、10年余りは、もうひとつ花が咲かずにご苦労されたとお聞きしております。

 1991年に Canon の第一回 「写真新世紀」 展 (君が走っているのだ。僕はダンボの耳で待つ) という組写真で優秀賞を受賞されました。それで一躍注目されたんですが、日本で活動するだけでは自分の仕事が広がっていかないのではないかと思われ、その2年後の1993年にフランスに渡られました。それから11年ほどパリで制作されています。
2003年に 「カメラキメラ」 という写真集で第28回木村伊兵衛写真賞を受賞されました。

 今回は1994、5年から2004年に発表された、ここ約10年のお仕事を紹介する展覧会になっております。

ではオノデラさん、どうぞ。

 本来でしたら部屋事に解説すべきなのかもしれませんが、展示は年代順にあえてしていません。それぞれの関係性と視覚的にハーモニーが感じられる形で展示されています。ただ解説は、年代順の方が前後のつながりで、何かしらの必然性が見えたり、意外性があった方がいいのではないかと思いました。

 第一室は、私がフランスに移り住むようになってからの作品が展示されています。
95年に東京の三ヶ所のギャラリーで同時に開催した 「DOWN」 という展覧会の作品です。

  液体とコップ / Liquid and Glass

 これは連作の数が40点くらいあるので 、この2点ではわかりづらいかもしれませんね。
コップに自作の液体を注ぎ込んでそれを倒して、ガラスのテーブルを流れて来た物体を撮影して、その後又コップを起こして又液体を流し込んで倒すという単純な繰り返しを、スケッチみたいな感じで写真に撮ったものなんです。
液体は液体だけで見ると抽象的で、小さな水滴にも見えるし、サハラ砂漠のようにも見える。大きさとかスケール感が乏しいんですよね。でもコップがある事で日常のスケールに戻ってくる。
ここに“手”は入っていませんが、これは制作していた時は分からなかったんですけど、もしかしてここには、写っていない“手”の動作とか“手”の行為が残っているんだなという事に、最近気がつきました。

 古着のポートレート / Portrait of Second -hand Clothes

 この古着はフランスの美術家クリスチャン・ボルタンスキーが1993年にパリで開催した 「離散 / dispersion」 の時のインスタレーションで使ったもので、彼の場合は、古着からナチの大量虐殺などを、死の象徴として印象づけています。

 世界中から集めた古着を、会場にピラミッドの山のように積み上げて、当時10フラン (200円くらい) で袋を買うと、その袋にいくらでも詰めて持ち帰ってもいいという展覧会だったんです。私もそこでいくつか選んで、彼が死の象徴として展示したものを、一点一点個別にポートレイトとして撮影しました。
これはパリのモンマルトルに住んでいた時に、建物の前には何も無かったので、窓を開いて服を吊って撮影したものなんですよ。
秒刻みに空の表情や雲が変化していくので、それぞれの服に空が合うように撮影しました。ですからそれぞれの古着は違う背景を持っていて、しかも自立しています。

 ここで 「液体とコップ / Liquid and Glass」 のシリーズと 「古着のポートレート / Portrait of Second -hand Clothes」 のシリーズのつながりを考えると、“欠けている身体” が浮かび上がって来ると思うんです。

 鳥 / Birds

 「古着のポートレート / Portrait of Second -hand Clothes」 と同時期に撮影したものなんですけど、鳥を撮りたかったので、バルコニーに餌付けをして鳥を集めて、集まった所でおどかして(笑)、パニックをおこして飛び立ったところを撮影したものです。
この連作も全部で30点くらいあるんですけど、どれも生物写真や動物写真のように顔が写っているものはありません。
わりと動きというかムーブメントによって、大気がざわめく動きとか、ざわめく事によってそれ自身が見えて来る。そういう動きを捉えています。

この三部作がフランスに移ってはじめて発表したものです。

Q: その当時はどうやって生活されていたんでしょうか?

A: 鳩にえさをやって(笑)。フランスに何故行ったかというのは、生活の基盤でも仕事の面でも、自分で生まれて育った国ではなくて、母国以外の所に行って活動をしたいという興味と、自立をしたいという思いがあったからです。でも最初は節約しながら貯金生活をしていました。当時はモンマルトルに住んでいましたけど、凄く狭い部屋だったんです。

Q: 三部作の順番と関係を教えて下さい。

A: この三部作のうち一番始めに制作したのは、「液体とコップ / Liquid and Glass」 のシリーズなんです。その次が 「古着のポートレート / Portrait of Second -hand Clothes」 。

最初は二部作だったんですが、三部作として紹介したいという事で、最後に考えたのが「鳥/Birds」のシリーズなんですよ。

 ただ三部作といってもそんなに大げさなものではなくて、レコードのアルバムでいえば、それぞれの曲が関連したり・・・起承転結はないけれども、もしあえてはじまりと終わりをいうならば 「 液体とコップ / Liquid and Glass 」 は、初源的な液体の抽象的なものからはじまって、「 古着のポートレート / Portrait of Second -hand Clothes 」 では、シワとかシミに表れている個人の記憶 。
バックを空にしたのは自立している感じを出したかったからです。
服は服でも部屋の中で見るハンガーにかかっている服でもなく、もっと身体とか人間自身が逆に見えてくるような、そんな皮膚感を持っているように、自立した形に立たせたかったんです。それで空の背景がどうしても必要となりました。

 最後にもう一作考えて最終的に 「 鳥 / Birds 」 になったんですけど、その絶対的な明かな関係は、私にもまだひとつ謎の部分があって、今後もっと違う解釈が出て来るかも知れません。

 でも空が撮りたかったというのはあると思います。それもただの空ではなくて動きを・・・このシリーズ全部が宙吊りになっていると思うんですね・・・古着も自立しているし、液体もガラスのテーブルの上で撮っているので、水平線が見えなくて浮いているのように見える。そして鳥も空を飛べるものだから。
そういう宙吊り感 のような動きと浮遊感、しかも空であるという事が関連していると思っています。

Q: フランスと日本のアートの状況を教えて下さい。

A: いろんな違いがあると思うんですけど、大まかにいうと多分フランスの方が裾野が広いというか、勿論現代アートバリバリの一番最先端をいっているものもあれば、伝統的な版画や彫刻もあるし、アーティストの数も日本より圧倒的に多いんですよ。そして最先端で活躍している人からじっくり制作している人まで、支える仕組みがあるので、その裾野の広さが日本と大きく違うと思います。

Q: ご自分の活動の位置づけは?

A: 私はよく、写真じゃないねといわれるんですよ。写真関係者に見せるとこんなの写真じゃないねと。美術関係者に見せると、こんなの美術じゃないねとはいわれませんが(笑)、写真として見るんです。
私としては例えばコンピューターを使ったものでも、ネガをおこして、2メートルくらいの大きさのものまで、自分の手で焼いているので、まぎれもない写真だと思います。
ただ断定されない方が・・・例えば時には写真、時には美術といわれた方が・・・その辺の曖昧な部分で活動したいなと思っています。

 Camera

 ここに一点だけあるんですけど、三部作の次の作品が 「 Camera 」 なんです。
どういう風に撮影したかといいますと、カメラ同士を向かい合わせて、暗い暗室の中で撮影しました。2台のカメラが同時にシャッターを切るようにして(但し片一方にしかフィルムが入っていない)、しかもフラッシュを、例えば私がカメラだとすると、こっちが本来の写すカメラなんですけど、そのフラッシュは撮られるモチーフではなくて、撮る側の方に向いている。この白い部分がフラッシュの反射なんです。
同時にシャッターを下ろしているので、この中心にブラックホールみたいに暗闇が見える状態なんですよ。もしこのカメラにフィルムが入っていたら、多分ここにいる私が写っているんですよね。だけどあえて入れなかったんです。鏡のように左右対称にするのでは無くて、この カメラはあくまでも何も入っていないので、同じようにシャッターは下りるんですけど、何もイメージが定着されない。こちら側が無になっているというか、本当だったら撮られる写真がフィルムが入ってなかった事で、撮られなかった写真になるんです。

 どういう経緯があったかというと、これはお蔵入りになってしまったんですけど、ちょっとやりたかった事がありまして、私はそういうのが実は苦手なんですが、それは写真を撮らせて下さいと声をかけて、撮らせてもらおうと、そしてそれと同時に撮られる事を拒否して下さいというシリーズを作ろうと思った時があったんです。

 あ! これは今はじめていってしまいました(笑)。

 それは形にはならなかったけれど、それが切っ掛けになっているんじゃないかなと思います。写真は撮る側と撮られる側 が常に外在しているので、この 「 Camera 」 では、人ではなく撮る機械なんですけど・・・そこで、もしかしたら写真の基本になっている撮る撮られるという行為自信が浮かび上がってくるのではないかと、考えた次第です。


P.N.I. / C.V.N.I.

 今ここに顔の写真と缶の写真が一緒に展示されていますけど、缶の方が先に制作したものなんです。これもここに到るまでにお蔵入りになったものがあって(笑)、それはUFOの写真なんです。
 本当のUFOではなくて雑誌の一部を何枚か小さく切り抜いて、写真集のような雑誌の上にその塊を乗せて、ポラロイドカメラで撮影したんです。そうするとアメリカで60年代、70年代に現れたUFOの写真に見えるようになりました。それは発表する事はなかったんですけど、「
C.V.N.I. 」 はそれが発展して缶詰になったんです。
缶詰のラベルをはがして、中身が何だかわからない状態のまま宙に浮いたように、実際には裏で吊っていますが、浮いたように撮る事で、物の重さ・・・ラベルをはがすと缶の金属の物体としての量感というか重量感が出ると思うんですけど、それが見えないような形になっていて、しかもこの床は、本当の床ではなくて、マケットで作っているんですよ。

 小さな床を作って撮影したので、二つの物のスケール感というか、見慣れた物よりは大きく見えるし、凄く遠い距離があるようにも見える。これは古着のシリーズとは逆転する形になっています。古着は身体の内部を作る有機的なもの、こちらはラベルをはがして、金属の無機質なものですね。

 この 「C.V.N.I. 」 は、99年に群馬青年ビエンナーレ99 (群馬県立美術館) で発表しました。その時に同時にこの 「 P.N.I. 」 という顔のシリーズも発表したんです。
顔のシリーズは、新聞に毎日掲載される人の写真を、福笑いのように口と鼻と目を切り抜いて、私が作った粘土の顔の土台の上に部品を貼り付けて撮ったものなんです。シワも本物ではありませんし、顔の部品は存在したものですが、顔としては存在しない顔になっています。これは撮影の段階でもピンをぼかして撮影してますし、プリントの段階でもまたピンをぼかして現像しているので、限界までピンがぼやけているんですよ。
もしかして普通のものであればここまでぼかしたら何だか分からなくなくなると思うんですけど、顔であるというだけで、いくらぼかしても絶対顔にみえるというか、私たちが人の顔を見る時に、顔は別のものとして認識しているというか、ただ記憶の中にある顔というのは意外と曖昧なものだろうと思うんです。でも一応その人の顔を写真に撮ると、そこで写真が記憶にフィックスされてしまう。
この顔は最初に見るともの凄く歪んで見えたと思いますが、段々見ていくうちに、脳が修正して普通の顔に見えて来る。修正する為には時間がかかると思うんですけど、時間自体も見る為の観照の一部として考えられるのではないかと思い展示したものです。

Q: タイトルの 「 P.N.I. C.V.N.I. 」 の意味を教えて下さい。

A: 両方ともフランス語で 「 C.V.N.I. 」 は、「未確認飛行物体」 という意味で、これは未確認飛行缶詰という感じにしました。「P.N.I. 」 は確認できない肖像というか 「未確認肖像」 です。

Q: この作品に人の一生を重ね合わせて見てしまったんです。

A: ありがとうございます。でも壮大なドラマを考えてはいないんです。
ただそういう風にいろんな形で解釈して下さる事とか、解釈可能なところが作品の深さになればなと、いつも思っているので、凄く面白いと思います。

Q: 何故モノクロの写真なんですか? カラーは撮らないんですか?

A: 基本的に今まで、モノクロがメインで撮ってきました。別にカラーを拒否しているわけではないんです。一つには今現像は2mまで自分でプリントしますので、最後まで管理しやすいという事です。写真はイメージかもしれませんが、私の場合物質として見せたいと 思っています。
カラーの場合はプラスティックのプリントなので、物質としての存在感というよりはリアリスティックなものとしてあると思います。これからの私の仕事はどう展開するか、まったく想像がつきませんけど、今まではリアリズムは必要としていなかった。そういうテクニカルな面と、あと一つは内容的な面ですね。

 窓の外を見よ / Look out the window

 近くで見ないとわからないかもしれませんが、これは日本の家の写真です。一見おもちゃのみたいな、マケットの作り物のようにも見えるんですけど、一世代が住んだら取り壊してしまうような建て売り住宅を実際に撮影したものです。プリントの段階で隣の家をマスクして隠しまして現像しています。
何故家かというと・・・ヨーロッパに93年から住むようになって、そこでは家は歴史のあるものだし、何百年も経っている建物の中を改装して住処としています。
以前に住んでいた人の記憶が住み着いているかもしれないわけです。それに比べて日本は、前に住んでいた人の記憶とかが残っていると、嫌がるというか。
勿論日本の風土の問題もあると思いますけれども、新調した服のように新しい所に住みたいという気持ちが強いのではないかと・・・。そこに二つの国の家の違いを感じたので、日本の家がある意味使い捨てとはいいませんけど、例えばヨーロピアン調とか、北欧風など毎年色々の流行もあるし、服のようにいつかは捨てられるようなものだと、それを撮影したいと思ったのです。あともう一つは 、構造物としての箱 、箱の中に開けられた窓。その窓から零れる光を定着するようにして撮影しました。

 この向かって左に掛かっている作品は 「ZOO」 といいます。

 この作品は 「真珠のつくり方」 という作品に関わってくるんですけど、ビー玉なんですが、ただのビー玉ではなくて、ビー玉に動物園の動物の目を閉じこめたというか、二重露光したものなんです。動物の目というよりも動物園に先に興味が湧きまして、それは 「Camera」 のシリーズを制作している時から、ずっと気になっていた事なんです。でも動物園を作品にするには凄く時間がかかってまして、多分5年くらいは経っていると思います。
動物園での動物の眼差し、動物園は、さっきの 「Camera」 で説明しましたように、劇場のようにシーンがあって見る見られる関係があり、見られる動物がいる。
実際に動物と目があっているのかといえば、実際には合ってはいない。その動物の眼差し、動物園という閉じた場所を写したいというのが切っ掛けにありました。

Q: 「 窓の外を見よ / Look out the window 」 というシリーズは、何秒くらいのシャッタースピードで撮られているんですか?それとカメラは何をフィルムは何を使っているんでしょうか。

A: まちまちですが、秒数は凄く長いんです。2分とかもっと長いのもあります。
カメラはあまり拘っていなくて、決まってはいません。古着のシリーズは細かいシワとかシミとかを際立たせたかったんで、私が持っている大判のカメラ、ハッセル・ブラットのようなディティールまでよく写るカメラを使っています。この 「窓の外を見よ / Look out the window 」 のシリーズは35mmを使っていますね。
フィルムも例えば細部までしっかり写るようにしたければ、低感度のフィルムを使いますし、粒子を荒らしたい場合は、もう少し高感度のを使います。好きで決めて使っているというよりは、その度に大きく変えています。

Q: 好きな写真家はいますか。

A: それを聞かれると困るんですけど、その活動が気にいっているというのはないです。ただ一枚の写真で、影響を受けたものはあります。

Q: 最初の頃はお父さんのカメラを使ってらしたと聞きましたが、今でも使っているんですか。

A: 今は使っていません。カメラにフェティッシュな愛情とか拘りとかあんまりないんですよ。
ないからこういう事が出来たといわれるかもしれませんけど、これから説明する 「真珠のつくり方」 では、ビー玉を入れて写真を撮っているんです。そういうのって写真家の人には酷い事をするなっていわれるんですけど、物に対する愛着がないから、そういう発想に結びつくのかもしれませんね。

Q: 今聞いていて気がついた事があるんですが、それぞれのシリーズが固有の大きさを持っていると思うんですが、このコンセプトで、このシリーズはこの大きさがいいと決められていると思います。 それについてお聞きしたいのと、先ほどの 「Camera」 のシリーズは、実物よりも大きい、こちらの 「窓の外を見よ / Look out the window」 のシリーズは、暗箱の中の光というカメラっぽいイメージがあるんですけども、家を撮られても、もの凄く小さい家。そのサイズ、スケールの違いをお聞きしたいんです。

A: 大きさについては、プリントの段階ではなくて、撮影をするそのさらに前の段階で、こういう形でこういうものを作り上げようというアイデアがある程度固まってきた時に、大きさもかなり正確にイメージしています。
古着であれば人よりもかなり大きく、「Camera」 のシリーズの場合は、カメラという機械は、今は携帯でも撮れますし、デジタルカメラで誰もが気軽に撮れるものだし、実際のサイズもかなり小さくなっていると同時に、それの持つ意識も小さくなっている。ですからあえて大きいサイズにしました。
この 「窓の外を見よ / Look out the window」 のシリーズは短い命といいますか、一世代住んでそこで壊れてしまうとか、日本の家を見た時におもちゃのような作り物のような、そこが面白いところだと思うんですけど、そこを見てもらいたい為に小さいサイズになりました。


真珠のつくり方 / How to make a pearl

 2000年の作品です。日本で発表した時は小さいサイズがメインだったので、わかりづらかったんですけど、これが本当のオリジナルサイズです。技術的な面でいうとプリントした後にキャンバスに布張りしています。それでちょっとゆらゆらしていると思うんですけど、ピタッとしたイメージとしての存在感ではなくて、物質として見せたいのであえて、まわりをきちっと止めないでゆらゆらとさせています。この写真がもしかしたら一番暴力的というか、写真家の方は皆さん嫌がるんですが、カメラの中にビー玉を直接入れて写真を撮ったものなんですよ。
この大きく光っている白い部分は、カメラの中にあるビー玉が、外から入ってくる光で反射して光っているんです。それでこの黒い部分は夜撮ったようにも見えるんですけど、実はビー玉の影で、半分のイメージは影で隠れてしまう。本当だったら撮影したものは、もっと写っているはずなんです。
それがカメラの中にあるビー玉で半分完全に消し去られてしまっている。カメラの中には普通は物を入れませんけど、あえて入れる事で本来ならただイメージが通過するところを、もう一回意識化させるというか、そこで何か事件をおこすというか、そういう意味性を持たせています。

 この発想は、ビー玉をカメラに入れる事から思いつきまして、それで何を撮ろうかという時に、建築とか動きがないフィックスしたものではなくて、むしろ動きのある事件を撮影したかったんです。そしてその事件は何かといった時に、集まっては散り、動いている群衆。人間は写っていても個人というよりは、群衆は大衆の中に消費していく部品であり、まあ、それなりに現れる量感もある。それで結局群衆を撮るようになりました。

 「真珠のつくり方」 というタイトルは真珠を作る時に、異物を入れる事によって貝が痛がって粘液を出して、最後は真珠になる。それに重ね合わせて、彼等群衆の中に異物を入れて、異物を入れる事で、普段は視覚的に見えなかったものが表れるし、しかも小さな事件がおこる。そうい発想を元に作りました。

Q: タイトルが先なんですか? それとも作品が先なんですか?

A: これも作品を作る前にタイトルが決まりました。私は先にタイトルが決まる事が凄く多くて、絶対的に必要ではないんですが、かなり重要な要素としてタイトルと作品が結びついています。

Q: カメラは壊れなかったんですか?

A: カメラにはいくら愛着がないといっても、そこまで酷い事はしないで、ちゃんとレンズにぶつからないように、小さなプロテクションのようなものを作りました。けど持って歩いているとガラガラ音がするんですよ。それがビー玉が入ったラムネのような感じ・・・。
ビー玉を入れてどういう風に写るかというのは、全くコントロール出来なくて、真ん中に来る時もあれば、小さく端に来る事もあるし、何処に来るかわかりませんでした。もうひとつ説明しますと、このシリーズがカメラという構造に深く関わっているなと思うのは、撮影する段階ではビー玉は底にあるんですよ。
ただ入って来た光は、カメラの中で逆像化されますね。結局プリントする時に、私たちの世界の見方に直すと床に転がっていたビー玉が、完全に浮遊してしまう。そこではっきりカメラの構造を同時に意識しなければならない。そんな事も考えました。

 Q: 表面がモアモアしているのはどうしてなんですか? 入れたビー玉は一つだけですか?

A: ビー玉は一つだけです。このモアモアは細胞のようにも見えるし、フレスコ画のひび割れたようにも見える。表面は現像の段階で粒子を破壊させたんですよ。粒子が流れ出してこういうフィクションを作っているんですけども、一つには群衆を撮るという事で、ある意味ドキュメンタリーのようにも見えるところがあって、そのドキュメンタリー性とかリアリズムから距離を持ちたかったんです。
カメラの中にビー玉を入れる行為は、かなり暴力的な行為だと思うんですが、それと同時に粒子を破壊して表面として意識させるという意味もあって、あえて粒子を壊してプリントしました。このくらいのサイズになってはじめてハッキリと粒々が認識出来るようになるので、このサイズは最初から考えて決めていました。


ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror

  「ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror」 の撮影までのいきさつを話しますと、これはある人のアパートなんですけど、私の知らない人のアパートに、勿論許可は取ってありますけど、住人が不在の時に鍵を借りて、夜懐中電灯を持って忍び込むように部屋に入って撮影をしたものです。
ここには写っていないんですけど、私自身が知らない人のアパートで、しかも個人的な生活をしている所、全く訪れた事の無い所に緊張しながら入っていく様子が、写真に表れているかどうかは分かりませんけど、行為自体がアピールして残るんではないかと思いました。

 ここにはもう一つトリックがありまして、懐中電灯をあてて撮ったんですけど、そのもの自身を撮ったのではなくて、懐中電灯にあたって光っている風景を鏡に写して、鏡の方を写真に撮っているんです。そうする事で左右が逆転して、違いがわからない程度ですけども、本当に微妙に実在するものとの違いがでる。すごくそっくりなんだけれど、現実とは違う。
 このタイトルの 「ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror」 というのは、鏡を使って左右逆転した世界を撮ったという意味もありますけど、ミツバチというのは、そういう小さな生物が広大な空間に彷徨い込んで、見えた世界を捉えています。同時に例えば、沈没船の底に沈んでいるものをダイバーがサーチライトをあてながら、真っ暗闇の中で何か発見していくという、そんなコンセプトとも重ね合わせて作りました。
不在という事では、古着のシリーズで身体の不在であるとか、家のシリーズでは、中が見えなくて空間のように見えるとか、カメラのシリーズでフィルムが入ってなくてイメージが定着されていない事とかが関係しています。

 不在という言葉は何度か出てきていると思うんですけど、この 「ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror」 を作った時には、あとで説明する作品 Transvest が造形的要素が強いものなので、写真の行為として残るような行為はどうしてもやりたくないという事がありまして、例えば 「ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror」 では写真を見ただけでは、不在な所に入り込んで写真を撮ったというのは、全く見えてこないんですけれども、写真を撮る側の行為としてドキュメンタリー的というか、緊張感を持ってそこに入り込む事を含めて作品の中に閉じこめるというか。
そういう意味で造形的なものと行為自身が重要になってくるものと、その二つは全く違うアプローチだと思うんですけれども、その違うアプローチがいつも、造形的なところが強くなると行為が強くなるとか、行ったり来たりしながら制作しているところがあるんです。この作品はその辺が強いんではないかと思います。

 感想 : 歯ブラシのこんな緊張感は、はじめて見ました。


Transvest

 これは造形的な要素が強いんではないかと思うんですけど、何故かというと一見ぱっと見た時は、逆光でシルエットだけが浮かんでいて、近寄って見ないとわからないんですけども、近寄ると色んなイメージが合体して、シルエットの中に張り込まれている。
それはどんなイメージかというと私自身が昔撮影した写真もあれば、本からとった写真もあり、顕微鏡の写真もあれば、衛星写真もある。また色々な過去の出来事や、写真が発明された頃のものもあるし、現代のものもある。すべてが雑多に身体の内部に張り付けてあるので、すでにイメージは出来上がっているんですけど、それ自体が世界というか身体の内部に内包されている。
この人間は生身の人間をそのまま撮影したものではなくて、私には重要な事なんですけど、実際にすでにある人間像を、一度写真になったものを使っています。
雑誌や本に載っている人間をハサミで切り抜いて、小さなシーンを作りまして真っ暗にして撮影しているんです。撮影すると顔とか着ていた服とかが逆光で見えなくなって、そのあとで私が完全にフィクションとして、シルエットの内部に色んなイメージを入れていく。
シルエット自体に見えてくるものと、シルエットの内部に見えてくるものとの関係が、ディティールを見ようとするとシルエットは見えてこないし、シルエットを見ようとするとディティールは見えない。その辺の矛盾があるんですけれども、それ自体が私としては面白くてやりたっかった事なんです。この浮いているような浮遊感は、元々生身の人間じゃなくて軽いので、その軽いままに人体を撮影して大体等身大にしました。ディティールは光を当てれば当てるほど出て来るんですけど、見える見えないギリギリのところでプリントしています。

Q: 写っているはディティールはどの段階で入れているんですか?

A: この人物像を撮影する時には何も入っていません。そのあとに色々な方法があるんですけど、コンピューターで合成したものもあれば、昔のフォトコラージュの手法、切り刻んでイメージを集めて来て、それを複写したり、複写したものをもう一度プリントして、コンピューターに取り込んだりしています。工程は複雑なんです。なるべく複雑にすると奥行き感が出て来ると思いましたので。

Q: そういう複雑な工程を経る事に意味があるんですか。

A: この作品はイメージで成り立っているんですね。シルエット自体も、人に一度撮られた写真であるし、ディティールも私が撮ったものに限らず、例えば本に載っていた写真もイメージなので、すべてがイメージで成り立っているんですけど、そのイメージ自身をさらにまた現実の世界に持って来て、それと合わせて撮影したりという事で、何層にもなる事でイメージの複雑性や視覚的にも複雑に見えて来ていると思います。

Q: 最初のコンセプトを固める段階で、かなり最終的なイメージが固まっているようにお聞きしたんですけど、制作の過程で最初のイメージとずれて来る事もありますか。

A: かなりあります。
 このシリーズは、最初に昆虫の擬態というのがありまして、それは何かに模倣するというか、これも人間のように見えますけど、人間なのかもわからないし、 男の子のようでも女の子であったり、擬態がまず先にあった。
その擬態から直ぐにこのイメージには繋がっていませんけれど、時間が経つにつれて、擬態と同時にジェスチャーというか、ジェスチャーというほどのものではないんですけど、何かしらのポーズをとっていて、ハッキリとこれだという意味のものではないんですけど、何か言葉に変わるのがジェスチャーというものだから、それも一つ擬態の中に含まれると考えたんです。
あとで気づいたんですけど、擬態という言葉をフランス語でその意味を遡っていくと、例えばパントマイムなどで無言劇というか、身体で何かを語るという、そこにも同じような意味の語源があって、それと同時にこの世に私たちが見るものは、もしかしたら実在では無く、複製にしかすぎないというのも同じ語源の中にあったので、でもそれはあとで気づいたものなんです。

 そうですね時間が経っていくうちには、変化していますね。あまりこれをやろうと、直ぐ飛びつかないんですけど、やはり何かしら引っ掛かるものはずっと残るというか・・・いくつかの気になるものがあって、どうでもいいものは忘れてしまいます。やっぱりやりたいなと最後まで留まったものは、ある意味で必然性があるので、それで2年とか3年かかって他のものと引き継いで形になったりする事があります。

Q: 片足を浮かしているように見えるんですが、何か拘りがあるんでしょうか。

A: 拘りはないんですけど、何故こうなるかというと、元々写真を切り抜いたものですから、奥にある足というのは、実際に平面にした時に、こういう風に上がっているという事ですね。それをあえてそのままにしたんです。だから実在感はそれによってないんですけど、本当の生身の人間ではないし、紙っぺらなものなんで、そのまま実在感のない浮遊のようなものでもいいんではないかと思ってあえてあのままにしました。意図的にやったものではありません。

Q: お母さんと子供シルエットの作品などは、内部のイメージに凄く精神的なものを感じます。そのイメージにバロック的なものを感じるんですが、如何でしょうか?。

A: 基本的には雑多なイメージなんですけど、それでも一人一人何となくテーマというか、その人のキャラクター というか、このシルエットとジェスチャーの関係から、何となく結びついて来るイメージというのがあって、それを貼り付ける時には、この人にどういうイメージを与えるかというのはわりとあります。それで多分それぞれ細部を見た時に雰囲気の違いというのがあるかもしれません。

 液体とテレビと昆虫と / liquid,TV and Insect

 さっきから3回昆虫が出て来るんですけど、「ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror」 というのは、ミツバチが写っていないけれど、ミツバチがアパートを彷徨っているような感じ。「Transvest」 は昆虫の擬態を取り上げて。「液体とテレビと昆虫と / liquid,TV and Insect」では本当の昆虫なんですけど、昆虫といってもテレビの画像として見えて来る昆虫。これは昆虫が出てくるドキュメンタリーが放映された時に、テレビの画面の前にカメラを置いて撮ったものです。
近くに寄って見ないとわからないんですけど、昆虫の方にはテレビの画面の走査線が入っているんですね。下側に付いているものは影のように見えるんですけど、これは最初に撮った液体の写真で、まったくマチエールが違ったものなんです。
ひとつはテレビ画面から出て来る情報でしかない昆虫。それと生の液体の質感と、二種類全く違うものなんですけど、二つのイメージをフォトモンタージュというか、ハサミで切り抜いて複写したものが、このシリーズです。これに対して語るのは難しいですけど、「ミツバチー鏡 / The Bee-The Mirror」、「Transvest」 が絡み合う作品になっています。


関節に気をつけろ!/ Watch your joint!

 

 これは2004年の制作で、隣の部屋にある 「Roma-Roma」 と共に最新作です。
これを作っている時には気がつかなかったんですけど、私がはじめてカメラを使わないで作った作品です。
これの元になるものは、あるサッカーの試合で、はじめから終わりまでの長い映像のうちの、一コマ一コマを考えた時に、それは無数のコマ数がある。それのコマから私自身で選び出して、抽出したものにさらに加工しているんですけど、何故カメラを使わなかったのを気づかなかったかというと、ひとつに無数のコマ数の中から、いくつかのコマを選び出すというのは、写真を撮るという行為に近いなと思ったんです。
思ったんじゃなくあとで気づいた為に、特にカメラを使っていない事に気づかなかったんですけど、ひとつ大きな加工ではないんですけど、まずサッカーのユニフォームは全部消し去られています。顔は実在しない顔に変形されています。ボールの位置が本来ある場所になかったり、増えていたり、このシリーズで凄く意識したのは身体の純粋な動きというか、スポーツ観戦の場合もそうなんですけど、どういうプレイをするかとか、どっちが勝つかという事だけに集中して見ているんで、わりと試合の中でノイズのように削ぎ落とされた見えてない動きがあると思うんです。
例えばダンスをしているように見えたり、どう考えても変な動きであったり。サッカーを選んだのは足だけでプレーするというのが、日常の身体の使い方とは全く違うという事で凄く面白い動きだと思ったからです。純粋な身体の動きと元からあるメディアとしての意味性を大きく外されたものとのそういう関係を考えながら作ったものです。


 Roma-Roma

 これは2枚作品が並んでいるんですけど、ステレオカメラという特殊なカメラで撮っています。ステレオカメラというのは、本来二つレンズがあってそれで同時に一つのものを、二つのレンズで撮影するんですけど、その時にちょっとしたズレがあって、あとでそのズレを特殊なメガネで覗いた時に立体的に見える。本来立体写真を撮る為のカメラなんですけれど、私はあえて二つのレンズで二つの場所を撮影しました。

 この風景は両方とも Roma という場所で、タイトルは 「Roma-Roma」 とついています。ただ Roma という場所はイタリアの Roma ではなくて、一つはスウェーデンのバルト海の島の中にある Roma 。もう一つはスペインにある Roma です。この Roma は地図を見ればわかるだけで行って見るまでわからない場所でした。最後には見つからないかもしれないと思いつつ、地元の方に Roma は何処ですかと尋ねながら、最終的には見つけたそれぞれの Roma です。この向かって左側はスウェーデンの Roma なんですけど、スウェーデンの Roma を撮影する時は、もう一方のレンズを光が入らないように隠して撮影して、そのあとスペインの Roma に移動して、さっき撮影した方のレンズを隠して撮りました。
結果的に同じフィルムに交互に二つの Roma が出てくるんですけど、このシリーズで特に強調したかったのは、“移動”、二つの場所に移動するという事だったんです。写真家が旅に出て、写真を撮るというのはスタンダードな 撮り方だと思うんですけど、私はあえて好きな場所とか興味がある場所とか、撮影する場所を自分で選びたくなかったんですね。
それで、じゃあ自分が選ばない為に移動するにはどうしたらいいだろうと思った時に、名前があればその名前を目指して向かえばいいんだと思いました。Roma じゃなくても他の町でももしかしたら良かったのかもしれないんですけど、Roma は映画のタイトルになっていたり、文化の面でも歴史がある。本当の Roma ではなくて、Roma という地名の Roma。探した場所を移動するために写真を撮るというか、写真を撮る事がはじめにあって、そのために移動するのではなくて、移動するのが目的で、それで写真を撮るというか。
移動という事が前々から凄く興味があって何かの形にしたいなとは思っていたんです。それとステレオカメラというものも3、4前に買っていまして、いつかこのカメラを使って何かしたいと思っていて、それから暫く時間が経って、二つのレンズが二つの場所という所で繋がってシリーズに到りました。

Q: それぞれの Roma に、この写真の隣にはこの写真が来るんだと意識されて撮られていたのでしょうか。

A: 意識はまったく出来ないんです。前に撮ったものが何処に来るかというのは、勿論記憶の中には残らないし、この二つの組み合わせというのはまったく偶然でどうなるかわからなかったんです。それともう一つ撮る時に、ある程度意識していた事というのは、物を撮るんではない、場所を撮るんだけれども、絶対的に写真として完成されたような場所を撮るんでもなくて、もう本当に歩きながら 、少し歩いて一枚撮るというような、ことごとく意識として は、創作性の低いというか、意図的にそんな感情を持ちながら撮影したんです。
偶然両方の町の大きさも規模が同じくらいだったんですよ。最初にスウェーデンに行って村を一周して来たら丁度108枚、意味はなくて偶然に108枚だったんですけど、そしてもう一つのスペインに行ったらここでも108枚、これは偶然出来上がったものです。

Q: 色は、カラーなんですか?

A: 緊張していて、凄く肝心な事をいうのを解説し忘れたんですけど、これはカラー写真に見えますが、カラー写真じゃないんです。モノクロ写真に油絵の具で人着 (人工着色) したものなんです。人着といっても殆ど忘れ去られた技術で、カラー写真がなかった頃に、モノクロ写真をもう少しリアルなものにしようと塗ったものなんです。
それをあえて古い技法で メガネのようなルーペをつけて、面相筆で葉っぱの一枚一枚を丁寧に塗って、それで普通のカラー写真と見た目はちょっと違う。懐かしいような色合いなものなんです。

Q: 今までの作品はプリントするまでに色々加工があったと思うんですが、この 「Roma-Roma」 に関しましては、プリント後に加工してますよね。その辺の変化というか 、意図的なものというのがあるんでしょうか。

A: この着色するという考えはこのシリーズを思いついた時に、もう最初にあったので、ですからプリントしている段階で、これはモノクロであがらなくて、カラーになるというイメージですね。
写真を撮る前と後という意識はないんですけど、前の作品と同じように、例えばある程度ぼかしたいが為にピンをぼかしたとか、これはいわゆるリアルなシーンではなくて、昔の風情があるような現実感のあるものから興味を持ったものなので、プリントする前からイメージしていました。今までのものと同じようなものかもしれません。

Q: モノクロで撮って人着で色をつける行為はどのくらいのウェートを占めるんですか?
コンピューターも使っていらっしゃるので、色の面だけでいえば、コンピューターでもつけられると思いますが、それをわざわざ絵の具で塗るという行為にいくというのは?

A: もしコンピューターで色をつけて・・・インクジェットなり他の方法なりで出力した色とは、全く違うと思うんです。絶対にこういう色は油絵の具でなければありえないものです。カラーの人着写真というのは、今のカラー写真ではなくて、その昔はリアルなものにしたかったからつけていた色です。
今はこうしたリアルなものがあるので、今見たらリアルなものではないという、そういう現実と現実に似た色味とは、ホンの僅かなズレをおこしたいなというのがあって色をつけました。色も現実の色とピッタリ当てはまるはずはないんですよ。
でも何となくその土地の色とか、それぞれの風土とか、その場の色とかいうのがありまして、記憶を頼りに塗る行為はクリエーティブな創造行為というよりは、むしろ職人さんに近いような、もし職人さんがいたら、その人に任せて塗ってもらいたいようなそんな感じの淡々とした作業なんです。

一時間半に渡りどうもありがとうございました。

( 質問は、会場のギャラリーの方々のものです )

 「こういうトークになると、今まで自分で気づかなかった事を、ぽろっといってしまう事があるんですよ」 と、オノデラさんは事前に話されたんですが、いや〜とても参考になりました。
オサルスは今回はじめてオノデラさんの10年分の仕事を拝見致しましたが、それぞれの関連性などは、こういう機会があればこそ理解出来るものだと思います。

 2003年のインタビューで作品は作家の世界の見方だという事が、オサルスにもわかったような気がしたのですが、それは世界を構成している基本単位を、個物と呼ぶとすれば、その個物の根源の生成のプロセスを視覚を通して探っていくやり方が、見方なのだと改めて思った次第です。

 それとひとつ発見がありました。
2002年のインタビュー(詳しくは:http://gaden.jp/info/2002/020910/0910a.htm)の時に 「 Transvest 」 は、拝見していたのですが、今回気がついたのは、なぜか素粒子の性質の事。素粒子は “位置を追いかけていくと質量が無限大になり、質量を追いかけていくと位置はぼやけてしまう”  それは個物の根源を探る作業に似てますよね。
物質感かぁ、納得です。

おっと、最後に忘れちゃいけない。

 あのフレンチの哲人石鍋裕シェフの、クイーン・アリス・アクア (http://www.nmao.go.jp/) で、ハーブチキン&ベジタブルサンドイッチ 700円を完食してまいりました。
壁にティルマンスの写真がさりげなく飾られているお洒落なレストランです。

具だくさんで美味しい〜よ。

 国立国際美術館は万博公園から、中之島西部地区に、完全地下型の美術館として新築、移転したばかり、常設展示にはキーファーあり、リヒターあり、バゼリッツありetc・・・楽しめます。

 入り口は竹の生命力を外観に取り入れたというだけあって、う〜ん。しなやか?。
ライトアップされた入り口の綺麗な眺めを写真に撮って、さあ、帰るかぁ。でもここは大阪なんだよねぇ。遠いよ〜〜。

オノデラユキ 関連情報 2005.1 2004 09 2004.9_b 2002.9

オノデラユキ図録 出版社:国立国際美術館 出版年:2005

オノデラユキ transvest 出版社:Nazraeli Pr 出版年:2004

オノデラユキ camera chimera 出版社:水声社 出版年:2002

RETURN


gaden presents
- g
allery / artist / dreamer / exhibition / network