東京藝術大学には、旧日光街道があるってご存知ですか? 藝大に街道があるとは知りませんでした。
「この樹は、もう年なので、お医者さんが延命措置を施しているんですよ。僕の学生時代には、美術館がなかったからこの樹が校庭の真ん中になっててね。この樹を見ると卒業生達が懐かしがるんですよ」 それを教えて下さったのは、版画家の中林忠良先生。 先生は、この春、40年間勤められた東京芸術大学を退任されます。 今日は中林忠良先生にお話をお聞きしました。 2月13日まで、東京藝術大学の大学美術館陳列館では、「中林忠良一腐蝕のまなざしヘー展」を開催。
・・・今回の展示を拝見して、「移ろう時のはざまにー山のアトリエ日記」(銅版画12点 1993年 町田市立国際版画美術館刊) というタイトルの詩画集に、先生の画業の全てが凝縮されているような感じを受けました。 そうですね。 ・・・版画は、文字と向かいあうといい雰囲気を醸し出しますね。 銅版画という世界はね。文字と仲がいいんですよ。ヨーロッパでは長い事、文字と一緒に手元を飾ってきましたからね。そういう歴史もあって、文字とは愛称がいいというかね。元々銅版画の世界には、文学の世界と非常に近いものがあると僕は思っているので、本仕立てになる事にまったく抵抗がないんです。これも画集になってましてね。文字を先に活版で刷ってもらってから絵を刷っているんです。 ・・・左側から右に向けて拝見すると、春から夏、秋、冬と季節を辿りながら時間の旅が楽しめる。絵巻物ではないんだけれど、時間の流れがすべて集約されていて、それでいて文字からイメージが膨みますよね。詩の形式で描かれているから、言葉と絵が一体となって見られる・・・凄い作品だなと思いました。70年代の頃は、言葉にしよう、言葉にしようという気持ちで作品を制作されていたと、カタログ(腐蝕のまなざしヘ)のインタビューにも書かれていましたよね。
67年も生きるといろんな事が見えてくるというかわかってくるというか。これ以前の作品と比べますとね。これ以前のものは若描きなんです。自分の思い込みの方が強すぎるとか作意が見えすぎるとかね。 ・・・ “山のアトリエ日記” を拝見していて、私は鴨長明の 『方丈記』 に記された草庵を思い出したんです。鴨長明は方丈庵で草案を書いたと以前読んだ事があります。 銅版画というのは元々黒を一番美しく見せる版形式というか表現形式だと思います。勿論色のインクを使えばカラーの作品になるわけですけれども、僕の仕事はどうもそういう風には進まなくて、黒に収斂する仕事の仕方ですかね。黒を見つめると対比としての白が浮かんでくる。結局僕の仕事は白と黒のなかの相剋・調和なのかなと思っているんですよ。 ・・・なるほど。 67の齢を重ねてきますとね。生きる事と死というもの。或いは生成と消滅とかが、自分のなかでも、また世間とか自然を見ていても、見えてくるような気がしてね。 ・・・この最後のページが白で終わっているのが凄く象徴的だなと思いました。
これは実は光線の具合であまりよく見えませんけどね。画集の一番はじめと同型の三角形が刷ってあるんです。まあ、雪が積もって見えなくなっているんですけどね(笑)。 ・・・え! この光線では見えませんね。私は意図的に真っ白にされたのかと思いました。 そうじゃないんです。雪が降っているように見せているんです。最初の版に手を加えて、インクを詰めないでカラ刷りしているんですよ。白のなかの白の図像になるわけですけど、「時が白いまま移ろうことができるように」 という文章で結ばれています。 ・・・やはり雪というのは、先生が育った新潟のイメージですか? そう。僕にとってはね。 ・・・普通、版画は一点一点のなかに時間が凝縮されますが、画集になると繋がりとしての時間が意識出来ますね。 先ほど銅版画が文学と仲がいいというか、文学の要素を抱え持っているとお話しましたが、大きな作品はガラスとかアクリルを入れて展示せざるをえないので、僕もそうしていますけれども、銅版画は手で持って、鑑賞するものだと思います。だから僕は若い頃から版画集を制作しているんですよ。これだと直に触れる事ができますよね。もうひとつ考えたのは、ページをめくる事によって、鑑賞する時間が存在する。それは一点では見せられないものですね。 ・・・版画は昔は出版物として、常に時代を反映して社会と繋がったメディアであったと思いますが、最近は作品の大型化によって随分様変わりしてきたように思います。
そう会場芸術になっていますね。過渡期としての見方も可能かなと思うんですが・・・今までは版画というのは、芸術の分野としてはちょっと低く見られていて中々対等に扱ってもらえなかった。それが東京国際版画ビエンナーレ以降は、会場で壁に掛かって額縁ごしに見るというような油絵や日本画などのタブローと同じ位置で鑑賞するものになってきたんですね。 ・・・ただ昔と比べると、コンピューターの普及など制作環境も、もの凄く変化していると思うんです。 環境は激変してますね。学生達と話していて、唖然という思いに囚われる事もあるんです。彼等にとっては普通の日常のなかで変化が起こっているから、例えば昨日と今日は全然違う方がいいというような気持ちになってしまう。 お待たせしました。鶏肉の赤ワイン煮でございます。 今日は藝大美術館のミュージアムカフェでランチを頂きます。 「一階は、美術学校から続いている大浦食堂。大浦食堂は和食なんですよ。音楽学校にはキャッスルという名前の食堂があって、そこは洋食です」と先生。 そうなんですか。美術館の建物の一階は学生食堂で、二階は美術館のカフェになっているんですね。凄いギャップだ! ・・・ところでシロタさんは、先生の展覧会を何年からされているんですか。 シロタさん: 67年ですね。確か小作さんの紹介でした。中林先生が30歳の頃です。展覧会はもう10回以上してますよ。ただ先生は、とても寡作な方ではじめは2年に1回とか、あとは3年位間があいたり、今回は10年あきました。
・・・陳列館の展示で版画集「剥離される日々」(1973年) と「触海頌ーすべてくちないものはないー」(1975年)、「POSITION/半睡の夏/1980」は、シロタ画廊で刊行されたものですね。 中林: 詩画集は全部で8冊作りましたが、最初は自分で作ったオリジナル版画集で、シロタさんのところでは4冊作りました。 ・・・以前もお聞きしたかもしれませんが、何故版画集を作られたんですか? シロタさん: 僕は本を作るのが好きだから。それに詩が好きだった事もあるし、今はかなり大きい作品を制作しますけど、元々版画はそんな大きなものは作れなかったわけですから、例えば木口や銅版画は物理的にも大きいのは無理だし、そうすると1点で自分の世界を全部表すのが中々難しいところがあるわけですよね。 ・・・10年ぶりの個展というのは、時間的に厳しかったんでしょうか・・・・。 忙しくてね。時間が足りなかったからですね。学校も終わりに近づいて長老というと変だけれど(笑)いろんな役職を与えられていて、しかも大学は変革の時期ですから。色々と仕事が多かったんですよ。去年がピークでしたが、版画の位置確認と我々は呼びますけども、気持ちの上では版画をもっと理解して欲しいという願いがあって、この大学美術館で 「HANGA 東西交流の波」 展(2004年11月13日-2005年1月16日)を企画したんです。 ・・・拝見しました。凄く面白い展覧会でしたね。ゴッホの最後を看取った精神科医ガッシェ博士の所有していたプレス機(版画家長谷川潔の手を経て藝大の所有に帰した)が凄く印象に残っています。
あのプレス機は長谷川潔さんと駒井哲郎さんの意志で、ここに収蔵される事になったものです。骨董のように手垢がついたプレス機なんですけど、いくつもの時代のいくつもの人達の手を経ていて歴史があのなかに入っているんですよ。そういうものをわかってもらいたいという気持ちもありましてね。それまでそういう経験がないにも拘わらず、調査をして補強しながら展覧会を組み立てたんです。 ※現在版画が曝されている危機的な状況を踏まえ、今一度「版画なるもの」の再構築を試みるならば、最低限どのような視野と認識が必要とされるのか?また、それらはどのような方向性に於いてなされ得るのか?を版画とテクノロジー、版画と教育、版画と大衆性、と言う3つの切り口からアクセスしようというものです(大学版画学会より抜粋) 京都、名古屋を経て12月には藝大(12月4・5日)で開催しましたから忙しくてね。その準備に二三年費やしてますから、シロタ画廊のシロタさんから、お誘いがずっと掛かっていたんですが、僕の方の気持ちの余裕が全然無くて、延び延びになっていたんですよ。 ・・・今回の陳列館の展示ではビデオで作品の制作過程が紹介されていましたが、作品を一枚制作するにもいろんな工程を経なければならず、とても時間が掛かっているのには驚かされました。一点制作されるのにどのくらい時間が掛かるものなんでしょうか。 2ヶ月くらいですね。毎日朝から晩まで版に向かって2週間で一点という感じでしょうね。 ・・・「腐食する時間に自己を投影する」 といってらっしゃいましたが、制作するにも向き合わなければならないわけですから、すぐ作品だけできればいいという事ではないので、たいへんなお仕事だなと思いました。今回の40年間の作品の軌跡をご覧になって感想を一言お願い致します。 作家は誰でもそういう宿命を負っているんだと思いますけど、前の作品を否定して、新しい地平を目指す事の繰り返しなわけですよね。当然自分のなかではかなり変化に富んだ画業だっただろうという意識はあるんですけど、展示しますとね意外と変わってないというかね(笑)。他の方からもいわれるんですけど、図柄は変わっているけれど、なかに沈んでいる制作との向き合い方というのかな、或いは質というものはね。変わってはいない。でももっと変わらなければいけないと思ったりね(笑)。変わらないんだと思ったりね。 ・・・でもこれで藝大のお仕事が一段落されて、今度は毎日版と向き合う生活をされるわけですよね。これからのお仕事楽しみにしております。今日はどうもありがとうございました。
この陳列館は、昭和4年(1929)に岡田信一郎によって設計され、大学美術館の本館ができるまでは、 芸術資料館のメイン・ギャラリーとして長く親しまれてきた展示室です。 長い時を経て、その時代時代の人の気持ちがこもっているんですね。 「ただの器だけではないですから」 なるほど。藝大受験に一度落ちたオサルスですが、もう一度受け直してみようかなぁ。 |