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オサルスのおすすめランチ ランチdeチュ その133

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中とろ赤みまぐろ寿司ランチ(京風うどん付き) 945円

旬香
横須賀市深田台50 横須賀市文化会館市民ギャラリー2階
046-823-2314
10:00‐17:00
ランチ2時まで 休館日 水曜日

 横須賀市美術館 開設準備室企画の展覧会が、横須賀市文化会館市民ギャラリーで開催されています。

中川久・藤田修展
-刻印された光と記憶-

横須賀市文化会館市民ギャラリー
神奈川県横須賀市深田台50
046-823-2950
10:00-17:00 水曜休館
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/museum/

 横須賀市美術館は2007年にオープン予定。横須賀・三浦半島にゆかりのある作家を中心に、企画展示される模様です。
観音崎に建設予定の建物はまだ工事に着工したばかりなので、この横須賀市文化会館市民ギャラリーの建物でプレイベントとして、年に1、2度企画展示が開催されているのだとか・・・。

 今日ご紹介する藤田修さんは、横須賀生まれの横須賀育ち・・・。

 「昔は基地の町でしたが、今は作家が多く住んでますよ。東京に出るのは楽だけど、向こうから来るのは不便だからね」

 なるほど。じっくり制作に打ち込めるということですね。

 藤田さんとの出会いは、確か2000年のギャラリー池田美術での「領域」(油彩)という展覧会だったような気がします。

 「具体的なものをベースにおいてそれを消す作業をしています。版画は制作過程がシステマチックになっているところがあるじゃないですか。それをもっとダイレクトに表現してみたいから」
と話されていたのが記憶に印象づけられて、でもその頃はあまり版画をきちっと拝見してはいなくて・・・。
ですからこういう形での大規模な版画展は初めて。うまく言葉にできないけれど・・・光と闇のモノクロームに包まれて厳粛な気持ちになりますね。

 1986年作「Warehouse」(絶版)から2005年の新作銅版画「River」まで、フォトポリマーグラヴュール15点を始め、計67点の代表作が展示されています。

・・・1980年代半ばの作品はシンメトリーになっていますが、それは何故でしょうか。

 特にシンメトリーというわけではありませんが、この頃は1箇所にとまって、そしてそこから視点を動かして一つに構成していました。

・・・キュビスム的な・・・多面的な視点から一つの空間を作り出すということですか。

 あちらこちらに動くのではなく、それを1箇所に集約して、空間感や時間を出したいと思っていたんです。

・・・作品に言葉が描かれているのは、奥行きみたいなものを出そうと思われていたのですか。

 はじめはグラフィック的な要素もありました。言葉をどこにいれるかによって、空間感や奥行きを出すこともあるし、視線の誘導みたいなこともありますね。それに文学や詩などの思考回路とも結びついているんです。でもそれまでにコンセプチュアルアートも経験しているじゃないですか、だから言葉が絵の説明をするのではなく、同時進行できるものはないかと思っていたんです。

・・・写真を使われているのは、現実に即したということなんでしょうか。写真と版画は社会を意識している部分があって、両方を使われている作家は、私はあまり知らないんですが・・・。

 僕の世代ではそんなに特別なことではないんです。当たり前のようにいろんな技法の一つとして、それを選択したということです。
 それまでずっと絵を描いてきたわけです。長いこと絵を描いてくると、自分のパターンや癖が決まってくる。それを1回チャラにしたい。
 そういう意味で写真の存在は、自分の手が入らないことで客観的に捉えられるし、そのあとコラージュしていくと、逆に今まで持ってきている技術や、癖から解き放たれて・・・ちゃんと作れる。それが多分最初にあったと思います。
写真を使いだしたのは学校を卒業してからなんですよ。
自分なりの表現ができないだろうかと試行錯誤しながらやってきました。

・・・まずイメージが先にあったから、手段として、写真を使われたということですか。写真を撮るということは、客観的というよりも、主観がものをいうのではないかと思うんですが・・・。

 だからモチーフがものすごく厳選されます。いつもカメラを携帯しているということはまずないし、作ろうと思って向かっていく作業をしないと、見つけようと思っても見つけられない。ですからまずイメージがあるということですね。

・・・80年代後半から90年代のはじめの作品は、言葉が分散して、視線が集約せずに広がりが出てきていますね。初期のシンメトリーから比べると、かなり目線のズレが出てきているように思うんですけど。

 最初の頃は、再現的なニュアンスが結構あったのです。それにプラスして、実際の画面のなかで、どういう空間を作っていくかという意図がでてくると、1箇所の写真だけでは収まりきれなくなってきたんです。
たとえば1996年の「 Abbey」(etching, acjuatint)は、2箇所の写真が組み合わさっているんですが、再現というよりも自分のなかで、空間を作り出してきているという風になっていると思います。

・・・「 Abbey」では、フランスの修道院を訪れた時の感動が、文章に描かれていますが、言葉ではうまくいえませんが、その時の空間感というか、藤田さんを包んだその時のアトモスフェアーを感じました。その空間感が1998年はじめのギャラリエ・アンドウでの個展「GROUND SERIES・I〜XII」につながっていくのでしょうか。

後の雨  -Spring Rain-
 昨年(1996)の二月フランスのブルゴーニュ地方・シャブリに近い村にひっそりと建つ中世のポワンティニー(pontigny)と言う名の修道院を訪れる機会があった。ベルサイユに住む友人が私の仕事の参考になればと、連れて行ってくれたのだった。その建物のなかに入った途端、私の全身全霊は深い感動に覆われ、一瞬身動きがとれなくなった。
栄華を誇るかのような飾りは一つもなく、すべてが長い年月を経た乳白色でモノトーンの石造りから出来ていた。たとえば高窓にあるステンドグラスさえ色はほとんど使われておらず、それでいて差し込む光はあたたかく無限のグラデーションをなしていた。礼拝堂を囲むように作られた回廊に歩を進める。視界に入ってくるすべてがその場所ごとに表情を変え、天井を見上げればその美しさに作家としての目が嫉妬さえ覚え、それでいてどこに身を置いても柔らかく身を清めるかのような光に包まれる幸福感を昧わうのだった。
静寂と冷たく澄んだ空気のなかに今では聖日にしか聞こえてこないであろうグレゴリアン・チャントが私の耳には確かに聞こえてきた。
 時を忘れる訪問だった。言うに言われぬ感動に去りがたい気持ちを引きずりながら、友人の車に乗り帰路についた。帰り道、雪が雨に変わった。
(0.F カタログより)

 ちょうどこの頃は、油絵をまた書き始める時期なんです。初期の頃に手の作業をやめたように、写真の版画を作り続けていくと、また手で描きたいという欲求が出てきたんですよ。
再現から空間構築に重きを置いていくと、今度はそれぞれの要素の一番根源的なもので仕事ができないかと、すごく思って来るんです。

 実際に写した写真を使わなくても、自分の作ろうとしている空間だとか、絵の持っている深さだとか奥行きだとか、その普遍性みたいなものを生み出そうと思った時に、ここでもペインティングをチャラにした時と同じように、写真を使わないでやってみたらどうなのだろうかということを考えたんです。
 この 「GROUND SERIES・I〜XII」 の他に同じようなシリーズがあと二つあるんです。で、このようなことをやってみて、その結果はどうなるかということなんですけれども、根源的なところにいきつくと・・・誰もそうだと思うのですが、一度は、何もない真っ白か真っ黒な画面に持ってきたくなると思うんです。それをやってみなくてはいけないと思ったけれど、この次にどう展開していくのか。この先どうなるのか。それを考えるととても難しくて・・・それで油彩画をやってみたんです。映像的なものを使っているんだけれども写真ではない、油絵の具で映像を消すような、光の印象だけあるような作品を描きました。そして版画に戻って、この要素を使おうと思った時に、写真に写っているものの名前を全部消すような作業になっていったんです。1999年の 「stay」 (etching, acjuatint) は、無記名せいというか、写真なんだけれども、写真といわれるものでもないような・・・。

伝えたい言葉がある。なのにうまく伝えられない。言葉を形に変えようと思うのだけれど、言葉の形が見つからない。
言葉は仮のカタチを借りることになる。
時々、声を聞くことがある。それは風のささやきのようなもの。筆を持った時、何の前触れもなく風が吹く。
きっと良い知らせに決まっているのに、聞き逃してしまう悔しさがある。
声は仮のカタチを借りることになる。
 時々、見えることがある。ぼんやりと見えることがある。まるで記憶に残らない形として、それは眠りに落ちる瞬間に現れる。
また仮のカタチを借りることになる。
 それでも、やはり、それでも‥‥。伝えたい言葉、風のような声、目を閉じたときに見えたもの。そんなものをカタチにしたいと思っている。           
(0.F カタログより)

・・・先日藤田さんのホームページ(http://www.asahi-net.or.jp/~wi9o-fjt/index.html)を拝見しましたら、「私が通うプロテスタント教会」へのリンクがついていましたが、作品のなかの修道院の窓などを見ると、宗教的要素がかなり見てとれるような気がしました。

 それは自分の精神構造とか生き方だとかのバックボーンとしてはあります。だからといって、具体的な教会というものとは違いますね。それにプロテスタントはドーム型の窓は作らないですからね。絵ずらとしては関係ないかもしれないけれども、作品自体から受けるものや、そこに向かう姿勢などは関係ないとはいえません。

 お待たせしました。
中とろ赤みまぐろ寿司ランチ(京風うどん付き945円税込み)でございます。

 横須賀市文化会館市民ギャラリーの2階にある「旬香」は、一見すると役所の食堂の雰囲気。どちらかというとあまり美味しそうには思えないんですが・・・。

※こちらの自慢は三浦半島で毎朝あがる新鮮な魚介料理。季節ごとの"旬"の素材を活かした和食中心のお店です。

 「これが案外いけるんですよ。三崎港からあがるまぐろがお薦めです」

 そういえば入り口にまぐろの幟がありました。
本日のランチは、まぐろ丼(みそ汁付き 840円税込み)とまぐろ寿司、和定三色ランチ(1050円税込み)、弥生弁当(1050円税込み)の4種類。

迷いますねぇ。ん〜。

 「まぐろ丼が美味しいと思います」 と藤田さん。

 幼少のころより素直に人の言うことをきかないオサルス、無類の鮨好きなのであえて “まぐろ寿司” を注文・・・。ボリューム満点で、お寿司にミニうどんが付いてくるというよりは、お寿司とうどんの2種類を食べた満足感あり。お腹が苦しい〜。
ただ、まぐろもうどんも美味しいんだけれど、シャリがもう少し柔らかいと嬉しかったかな。
やはり人の意見は聞くものですねぇ。
 ちなみに藤田さんの注文した(三色丼:うなぎと天ぷらとまぐろの中落ち丼 1050円)は美味しいそう。あ〜ぁ、同じものにすれば良かったなぁ!
窓から遠く東京湾を眺めながら、ため息をもらすオサルスでした。

・・・この「GROUND SERIES・I〜XII」を拝見した時に、榎倉康二さんの作品を思い出してしまったんです。池田さんとのインタビュー(詳しくはhttp://www.gaden.jp/info/2005/050126/0126.htm)の時に、“世界を構成している基本単位を、個物と呼ぶのならば、その個物の根源的世界を見続けられていた方だと思いました”と書きましたが、共通された見方をされてるんだと思いました。これでやっと私のなかで「GROUND SERIES」から、2000年の油彩画につながっていくことができました。油彩画から版へ、版から油彩へ、そしてまた版へ、銅版画にこだわる理由をお聞きしてもよろしいですか。

 版の魅力というかね・・・その辺はまだ自分でまとめきれていないのだけれども、ものを作っていって最終的に決着をつけて、それをはぎ取ったもの、そのリアリティーというのはペインティングとは違う魅力がある。再現性をイメージするだけに重きを置くというのであれば、ペインティングだって、パフォーマンスだってなんだっていいのだけれど、版を介してのリアリティーみたいなもの・・・版にしかないリアリティー。版だから複数性で写されたものだということだけでは片付けられない版のもつ強さというか・・・。

・・・先日中林忠良先生のインタビューで(詳しくはhttp://gaden.jp/info/2005a/050209/0209.htm)、「腐食する時間に自己を投影する」とおっしゃっていたのが印象に残っているんですが・・・。

 もちろん自己投影ではあるのだけれど、僕の場合基本的に作品の目指すところは、作品として成立するというか、自分を超えたところで、先程いいました普遍性みたいなものができなければと思っているので・・・。

・・・なるほど。でもこの2004年のフォトポリマーグラヴュール(別名ソーラプレート)になると、だいぶイメージが違うというか。少し軽くなっている感じを受けるんです・・・。

 これは感光樹脂版のものなんですけども。これは自分からやろうと思ったのではなくて、ある方から紹介されたものなんです。
 やってみましたらフォトエッチングとはまったく別物で、今までの銅版の持っていたリアリティーみたいなものとは別の・・・なんといったらいいのかな、強さというのがなくて、薄いですよ。薄いんだけれども、逆に版から写し取るときの版の持つ均一的な情報みたいなもの・・・。
銅版画であればそこにすごく感情的みたいなものがたくさん入ってきて出てくるんだけれども、フォトポリマーグラヴュールは、その表情が妙に艶めかしいというか、ルーペでみるとめちゃめちゃきれいなんです。それがすごくおもしろくて。
 それにこれは銅版と違って1発勝負なんです。要するに手を加えることがなかなかできない。イメージのある原稿通り1回で作らなければならない。ある意味、潔いといえば潔いいいんです。
ただ銅版画のような感情移入や手作業が入らないにもかかわらず、下手をするとちょっと情緒的になってしまう、それが微妙なものとしておもしろい。それに意図する通り、写真のイメージが美しく出るし・・・僕のなかでは、「GROUND SERIES」で作った時のように同等に扱えるおもしろいメディアだと思っています。
 なんといってもまどろっこしくないんですよ。イメージが明確にあれば、早く実現できるんです。すごく現代的だと思うんですけどね。

・・・写真を撮った段階である程度決まってしまうということですね。

 今まで格闘してきた技術がなくてもできてしまいますから、パソコンみたいなものですね。イメージさえあれば、誰でもそこで表現できる。普及するとおもしろい。アメリカの作家はずいぶん使っているみたいなんですよ。彼らは技術偏重ではなく、表現できればいい。それも自分の思った通り簡単にできればいいわけじゃないですか。写真の紙焼きをポンと置くような感じに提示できるわけだから。

・・・おもしろいですね。写真の方に何人かインタビューさせていただいたんですが、物質感のことをいう方が多いですよ。なかなか写真だと物質感が出ないけど、版というのであれば、重さも出て来る。革命的ですね。

 腐食がないでしょう。エコにもなる。グランドを使わないからガソリンやシンナーも使わないし、太陽と水だけですからね。それに紫外線を浴びると硬化するんです。僕もそんなに詳しくないんだけれども、20世紀の最大の発明が感光性ポリマーだということらしいですよ。色分解して版を起こせばカラーにもなりますよ。

・・・そうなんですか。知りませんでした。
今回86年からの作品の流れを拝見して、そこにある空間というのをかなり感じました。
あそこにもないし、そこにもないし、でもここにある。そういう空間を感じたのです。それが“ある”ということなんだろうなと・・・。

 自分がここにいるということの驚きみたいなもの、要するにあそこじゃなくてここにいる。
そしてここにある。存在するという意味での驚き、自分の考えをめぐらすと必ずそこに気付きますよね。それが喜びであったりするわけです。作品が僕から離れれば、見る人によって成立する・・・自分が介在できないわけだけれども、そうやって見ていただければ嬉しいです。

・・・人間の目が進化しない限り、空間感は感じることができる。それがある意味での普遍性につながっていくと思うんです。

 空間感というのは、絵づらのなかでの奥行きとかそういうことだけじゃなくて、もっと時間的な空間であったり、人間が生きていく間のものだったり、そういうことを考えないで、表面ずらだけで仕事をしたりすると、ただ単に作家のはけ口であったり、単なる思いつきであったり、それだけで終わってしまう。その時のパット見のおもしろさがあっても・・・そういうものじゃないような気がするんです。

・・・私の言葉の足りないところをフォローしていただいて助かりました。

今日はどうもありがとうございました。

 横須賀市文化会館市民ギャラリーは京浜急行の横須賀中央駅から歩いて10分、高台から東京湾の絶景が楽しめます。
ギャラリー周辺は公園になっていて、長崎の平和祈念像で有名な北村西望の「自由の女神」像があたたかく来訪者を迎えてくれますよ(ちょっとびっくりだけど・・・)

 北村西望の残した言葉に
「自分は天才ではないのだから 人が5年でやることを、 自分は10年かけてでも、 やらねばならないのだ。」
があります。

 オサルスなら一生かかりそうだなぁ。でも継続は力なんだよね。

 ちょうど梅も満開。

 横須賀に春を探しに行きませんか。

藤田修 関連情報 2002.4 2000.9 2000.7 2000.7_2

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