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オサルスのおすすめランチ ランチdeチュ その152

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鯖の塩焼き(温泉卵、味噌汁、ご飯、サラダ付き) 750円

三四郎
文京区湯島3−47−8 TEL 03-3833-3460
ランチ11:30〜13:30

 

 千代田線湯島駅1番出口より徒歩1分。
 三四郎は湯島の路地裏にある隠れ家的な雰囲気のお店。
「ここは飲み屋なんですけれど、よく来るんですよ」 と、評論家の藤田一人さん。

 思い起こせば三年前、池端の鰻屋さんでとにかく長〜〜〜〜〜いインタビューをしたんですよ。読み返すだけでもヒィ〜疲れます。自分でいうのもなんだけど、このときは自分がマゾじゃないかと思いましたものね。
藤田さんの豊富な知識は機関銃のように次から次から繰り出され、それも関西弁。
 今回は三年前の比ではなく、1時間当のテープを起こすのにマジで9時間掛かりました。これだけでも驚くのに、実はこの日のインタビューは延々6時間。あまりに長いので三四郎のご主人に怒られてしまって・・・もうへとへと。藤田さんのパッションに圧倒されっぱなしです。
 では、何故インタビューするかといえば、藤田さんは、このインタビューに関して校正なし。評論家は自分の口から出た言動 (生の言葉は荒ぶる力のようなもの) に責任を持つということでしょうね。潔いじゃないですか。

 おっとランチを紹介するのを忘れてました。鯖の塩焼き(温泉卵、味噌汁、ご飯、サラダ付き 750円)に銀だらの煮付け(温泉卵、味噌汁、ご飯、サラダ付き 700円)です。
  あまりにもパワフルな藤田さんに押され、何を食べたんだかよく覚えてないんですよね。
でも流石に老舗の居酒屋さんだけあって、築地仕入の鯖が新鮮で油がほどよくのっていて、口に入れるとトロリと溶ける。美味い。ご飯も大盛でこの値段はお値打ちです。ご主人に怒られてしまったのでオサルスは当分行けないけれど、お薦めですよ。

 「Be TARO」って知ってますか。

・・・糸井重里が仕掛けたんじゃないですか。かなり以前糸井重里のサイト 「ほぼ日」 で見たことがあって、話がしたいと一回メールを出したんですが、無視されました。

 結局これも藤田で5回目だなって。前に聞いたでしょシンポジウム、
【<日本画から日本画へ展を糸口として「挑戦する日本絵画」>。パネリスト;加藤弘子(東京都現代美術館学芸員)・柏木智雄( 横浜市民ギャラリー副館長)・北澤憲昭(美術評論家)・堀浩哉(美術家)・ 岡村桂三郎(美術家)吉田暁子(美術家)】
あれなんかもこれやなぁと思って、あのシンポジウムは酷い。
  柏木さんの官僚的答弁は何を聞かれても同じ、今は何を聞かれてもあぁですよ。結局自分の考えていることはえやないかそれでって、つまり自己認識というのを完璧にいらんという方にいってんのかなぁ。
最近の美術状況ってね。本当に一種皆の無関心。圧倒的にそれ思う。だからこの 「Be TARO」 だって、こんなタイトルつけたらおかしいやろって。結局岡本太郎は絵描きではないのだ。強いて言えば、人間というのは誤解されるからね。でも結局どっかであの演出はおかしいと思ってるんだ。
 つまり岡本太郎が美術界から無視されたなんてあるわけないじゃない。あの人って、大宅壮一が、現代の黒幕の中の美術編で書いた人ですよ。つまりあのとこで、美術関係って東郷青児と岡本太郎、勅使河原蒼風と丹下健三かな。ある意味反主流ではあったけれども大物なんですよね。宮本三郎とも結構仲がいいんだよね。
よく美術手帳がやってた美術家内閣なら必ず外務大臣などに挙げられてるし、一番典型的なのは日展が官展でなくなるときに、社会党の委員が質問するんですよね。「これで日展はいいか」 って、そのときに横山大観も岡本太郎も名前を挙げてるんだけれども、その当時は名前を出してないものは、本当に今の日本の美術を代表するものといえるかみたいな風潮だった。岡本太郎って、そういうときに必ず名前が挙がってくる人なんですよ。
で、それがまったく画壇から無視されていたとかっていうてる。つまりあの人って典型的に美術の人なんですよ。考えてみればあの人って、太陽の塔以降テレビにでできたけれど、ずっと前から美術の中のスターであってさ、それが 「Be TARO」 じゃ、さしも美術を超えてるみたいな感じでもってきたりするじゃないですか、あんなことないよなぁって、あれは敏子さんが演出したかった太郎像にみんなが乗っかっているだけ。でもそれはそれでいいんですよ。問題はそこに美術関係者までが乗り出すことですよ。

・・・乗ってるんですか。

 はっきりいって、あんなテレビ番組やって、この展覧会、空回りしているという感じがしたんですよね。でも以外に皆やってるでしょう。乗ってるじゃないですか。そういうことは何かというと、美術内でも昔の岡本太郎なんて知らんでいいというイメージがどっかにあるんじゃないか。だから世の中なんてそんなもんだよ。煽ったら煽られ尽くせ。この 「Be TARO」 ってね。「太郎になれですよ」 。この人は自分のことをピカソを超えたというた人ですよ。だから岡本太郎なんて簡単に超えられるじゃないですか。「太郎になれ」 ともし岡本太郎にいうたら 「太郎なんかになれるか」 って絶対いうでしょ。

・・・反骨精神がある人でしたものね。

 そうですよ。「Be TARO」 なんて岡本太郎がいちばん嫌う言葉やない。それを敢えてね。強いて言えば、それを知った上で糸井重里がつけてるとは思えないんだ。で、テレビの人たちも、周りの人たちも、岡本太郎という実在はしらんだもん、つまり岡本太郎が死んでから敏子さん経由で皆知ってるわけだよね。
  僕は生前に3回くらい逢ったことがあるんだけど、非常にまともな人という印象があった。あの人って派手なイメージがあるけど。派手な背広を着ているのを見たことがない。だいたい茶色とか濃いグレーで赤いネクタイをしているという感じで、それこそ川崎春彦の方がよっぽど目立つ、岡本太郎ってそんなに目立つ服装しているの見たことないもん。服をみればものすごくシックでお洒落なんですよ。ある意味でフランス調のね。アメリカ型の派手な服、絶対に着てきぃへんひとやもん。

・・・民俗学についてとても深く研究された方ですよね。

 ある意味でエリートなんですよ。コスモポリタン的エリート。村上(隆 ) は方法論として大衆とかいうてるけど、当時戦後の人たちってやはり戦争の乗り越えというのがあるから、美術という狭い世界はあかんのだよと、これを広く広げなあかんと思っていた。結局言っていることは、土方定一とか瀧口修造と一緒ですよ。

・・・神話化された岡本太郎のイメージが膨らんでしまったということですね。三年前のインタビュー(http://www.gaden.jp/info/2003a/030723/0723.htm)で、藤田さんは、そういう美術の幻想を壊したいと言われてましたよね。

 そのイメージというのが、様々な賛否の中がで現れくるものならいいんですが、今それが完璧に煽りでしょ。「Be TARO」 って空回りしてるという感じなんだけれども、皆は素直に受け入れるんですよ。
ある意味で言葉ってそういうもんですよ。誤解されてやってくもんだからそれはそれでいいんです、それに対するメディアの反発がどこかにあってもいいやないかな。
それをいつでも思うけど。それがこの前の藤田嗣治。藤田もそうですよね。今回の藤田展というのは、奥さんの主導型で奥さんの歴史的価値観を語りたかった。だから基本的にパリで大成功して、日本に帰ってきて、日本の画壇から追い出された悲劇のヒーロー。それを肯定している。全部の新聞社が書いたけれども、そこのところには全くふれへんかったでしょ。
書評で書いたんですが、藤田は日本人にとったら、あくまで根無し草としか見えへんかったんです。日本を背負ったことのない人ですよ。戦争画のときに帰ってきたり。そこへいくと、横山大観や高村光太郎を日本人が庇いたい気持ちはわかる。藤田にはそれがないんですよね。やっぱりどっかで嫌な野郎なんですよ。
それがもうちょっと意見として出てくれりゃいいと思うけど、まったく出てきぃへんかったでしょ。新聞社もいろいろなことを言っていたけれど、結局そこのところは触れなかった。
藤田がね。今ままで戦争責任者としてメディアに取り上げられたことは一回もないんですよ。それこそ横山大観の方が間違いなく戦争責任としたら大きい。対価度が全然違いますからね。そのとき何故藤田がそういう風なあれになったかというのは、理由があるわけじゃないですか。そこのところがまったく考察されずに、とにかく奥さんの言いたいことが、今回は全部通った。それに対する反駁ゼロ。
つまり奥さんが認めへん藤田像は認めない。それは岡本太郎にもあるんですよ。ただ敏子さんの場合はまだいいんですよ。何故かというと、自分が知ってやってんだもん。「Be TARO」 みたいな感じで、虚像が虚像でダダっといってまう。それをまだ皆がそうやなぁと思っていてやってる分にはいいんですよ。
以前月刊美術に 「社会性をもたない藤田」 というタイトルで書いたんですが、同じようなことを藤田の甥もアルチザンで書いていますよね。そういう意見ってあるわけですよ。その意見というのも込みになって一つの人間像でしょ。同じ特徴でも負にもなるわけだから、本来ならそれが拮抗しあいながら、この立場ならこちらを出そうとするけど、今回の藤田像は、それが全くないんですよ。岡本太郎も全くないんですよ。
それはどういうことかというと、別に本当の藤田がどうであろうが、本当の岡本太郎がどうであろうか。多分どうでもいいんですよね。糸井重里にとって岡本太郎は逆にどうでもいいですよ。
これがいちばん典型的なのは、ボクシングの亀田なんです。7時半から放送を始めて1時間半亀田伝説で親子の物語で盛り上げといて、第1ラウンドからどんとダウンをくろて勝ったわけでしょ。
あれを見て、みんな何を思ったかというと、スポーツの問題やないんです。人間の信条として、あの虚像をもろに見せられるわけです。亀田の伝説で1時間半引っ張り、9時ちょっと前から始まるじゃないですか。でも第1ラウンドからそんな伝説なんかないんだ、普通のボクサーなんだなということが見えてくるわけでしょ。
勝負というのは勝つこともあれば負けることもあるのは当たり前で、ルールの上でやるんだから分かってることじゃないですか。でもそんなことどうでもようなってるんですよ。テレビ局にとってみりゃね。つまり盛り上げるだけ盛り上げた後に、虚像は虚像のままで押そう。でもあそこまで露骨に見せられると、見る人間はすごく不安になってくるんですよね。
「俺が見せられているのはこんな虚像かよって」 感動とかなんとかアホなこと言ってね。結局みんなが見てるもんてこんな虚像かよ。それは今年だけでも、村上、ホリエモンから始まり、オリンピックがそうでしょ。もっと典型的なのがワールドカップね。勝てる勝てると盛り上げといて、負けたらスっとなくなる。
そういうもんだと言えばそういうもんだけれど、本当に違和感を感じているんですよ。やはり皆もっと確かなものが欲しいと思っているのに、与える側がどんどん演出してくる。それに対して、前までは絶えず 「ここまで言い過ぎていいのか」 というちょっと保留があったじゃないですか。でも今は保留をつけないですよね。あらゆるところが一斉にやってくる。それが今度同じように、藤田嗣治とか岡本太郎に出てるのよ。それがもう一つ出てるのは、奈良美智。

・・・人間の頭の中は、あるイメージを思い込むと、そこからなかなか逃れられない。客観的な世界を眺めるというよりは、主観的なものしか認識できないからじゃないですか。それが最初に話題に出た。シンポジウムに帰結してるような気がします。

 堀さんは、団体展作家なんかと、あの人は余裕でいう人、日展は悪しき慣習と言っているし。つまり団体展というのは何か。掘さんにとってみれば、学園紛争のときに日展に押しかけたみたいな古いイメージ。まだボスがいててね。ピラミッドになっててね。地方の県展から上げてきてね。癒着関係になっていてね。そう思てる。これと同じことが、北澤氏にもいえますね。
でも前まではあれやった。日本画のことを語るときに、絶対に公募団体の現状というものを把握しない限りものはいえなかったわけです。それを自分が否定するにしても肯定するにしても、それを話題に挙げなきゃいけない。例え挙げないにしてもフィールド中にそれを入れとかなきゃあかん。そういう意識が北澤さんや掘さんにはまだあるんですよ。
でも加藤さんと柏木さんにはない。つまりあのメンバーの中で本当の意味で、団体展をすべて見て、百貨店でやっているものを一応認識した上であれを選んでるかといえば、それはないです。完璧にその認識がないの。見んでいいと思ってる。ここの落差の大きさですよね。
日本画といいつつ、日本画の現状認識というのは、彼らたちはないんです。なくていいと思ってる。で、その無関心が今はいちばん大きいかなと思います。以前某新聞に書いたのですが、加藤さんのやってることは、昔の前衛を支持する人たちと一緒。つまり加藤さんが、(MOTアニュアル2006 NoBorder - 「日本画」から/「日本画」へ) で挙げた人は、アカデミズムの日本画家出身者か、一人は東洋美術の日本画をやっている人が推した作家でしょ。
日本画っぽい作家の中から新しいそうなのを挙げてきているわけ、何を切っているかというと、公募団体というギルドに入っている人間を切ったんですよ。例えば1948年にパンリアルは日本画の前衛集団を立ち上げた。何故新しい日本画かといえば、以前創画会の人たちがいうたことですけど 「私たちは、別に日本画を新しくする気持ちなんかなかったわよ」 と、ただ、自分たちの運命を支配している画塾制度への反抗があった。あれは社会闘争なんですよね。
パンリアルの人たちにとっても反画塾なんです。京都はそうじゃないですか。中村正義がやったことは、反日展。反体制に過ぎないわけですよ。北澤さんのやっていることは、あの人は、ものすごく政治的ですよ。なら加藤さんたちが自分たちが本当に政治的な立場に立って、それをやっていると思っているならいいんだけれども、北澤さんに乗っただけなんですよね。
シンポジウムで、言ってたじゃないですか。「皆が美術の方式を守っているんです」 と、「日本画というのは昔の制度、例えば屏風とかを捨ててきた」 と、僕は柏木さんたちに言いたいのは 「それは日本画だけが捨てたんじゃないんですよね」 と。社会環境の変化の一つだから、日本画だから捨てたわけでもないでしょ。
日本の社会環境や文化環境を外して、日本画の問題だけにするのはおかしいし、それは会場芸術が変えたんだといえば、変えましたよ。でも間違いなく今横浜でやってるのは会場芸術ですよね
【日本×画展(にほんガテン!)しょく発する6人。〜9月20日まで 横浜美術館】 屏風や掛け軸がなくなったというけど、今、院展で高橋秀年は巻物を出している。それはあかんのか、そこで彼らの頭の中にも無意識のうちに、体制は嫌だ。という頭があるんですよ。
だから針生さんたちのやっていることと全く変わってないんですよ。なら作品としておもしろなったか?。例えばしりあがり寿の漫画みたいなやつ、絶対に作品としては、川端龍子の方がおもしろいですよね。漫画的なセンスでも、時事的なセンスでも、あの伊勢湾台風を南国から来た逆生々流転やて、やって見せてくれるんですよ。
そういう認識の素にあれをやっているのかといったらないんですよ。だから非常に保守的な意味での日本画というものしか認識していないということになる。保守的な意味での日本画しか認識していない人間が、日本画の新しいセンスを持ってるとは思えない。そうしたらもっと学芸員が日本画というのは、もっと広い何かがあるんだと言えばいいわけだから、でもそれはないの、日本画から離れようというけれど、逆にいうと、柏木さんとか加藤さんの方が、日本画という枠組みと状況をものすごく印象強く持ってしまった。だから排除したいんです。
つまりボーダーを壊したいというけれど、あの人たちがやることは早い話が、ものすごくボーダーを浮き上がらせているんですよ。あれなら、言うたら悪いけど川端龍子の方が粋ですよね。強いて言えば、今年の工藤甲人の春の出品作の方がよっぽど新しいですよ。人魚の上にサーファーが居てるんだもん。
だから日展の作家たちを見ている方が、まだ素直なんですよ。逆に言うと彼らの方がものすごくスタイリッシュになっている。柏木さんとか加藤さんが日本画をやるのは、日本画というのは日本のひとつの国語みたいなものだから、大きな美術館では必ずやらなければいけないというお達しがあるだろうし、そういう美術館内の問題もあるんでしょうね。
東京都現代美術館で工芸みたいなのもやっていたけど、上からの支持があるからやるのはわかるんだけど、加藤さんと話したときに思ったけど、関心がないんですよ。日本画なんてどうでもいんですよ。とても公募展を全部見てたと思われへんもん。日展、院展は嫌やけど、創画ならちょっといいかな。あれね東京芸術大学を出てるからいいんですよ。あれがもし金沢とかなら変わると思う。
その非常に狭い概念が、逆に現在美術側の方にあるんですよ。無関心なんだもん。でも北澤さんは、まだ公募展のことを話題に挙げて、判断をしない限りこの問題は絶対に解決しないということを知っているから、あれを言ってるんです。柏木さんとか加藤さんであればその質問をしても答えませんよ。多分現状認識ないと思う。

・・・それは私もないです。

掛け軸やるんだったら、どうして杉原原人やらへんのよ。あの人こそ掛け軸で生きてきた人だよ。それを分かっててやってるわけやないですよ。偶々新しいやつが出てきて、アピールが強かったからとっただけなんですよ。

・・・同じ土俵にはいませんよね。あのシンポジウムは、各人が各人のプレゼンテーションをしているように思いました。皆てんでバラバラだということが、日本美術の状況じゃないですか。皆思い込みばかりで、同じ土俵に立とうとは思ってないですよね。それだけのことだと、思います。

 思ってないんだけど、何故それを考えるようになったかといえば、和田義彦氏の盗作疑惑。今、展評(http://www33.ocn.ne.jp/~artv_tenpyo/tenpyo.html)に書いているから見て下さい。
 あれで分かったことというのは二つあるんですよ。一つは、やっぱり本物を見ることは大事だよな。ということ、本物があった方が、はっきり違いがわかったから,戸惑うたと思いますよ。
あれが何であんなに話題になったかというと、本物がないことによって、同一性の方が見えたからですよ。和田さんがあそこでいったことって、下手さとか調子のよさもあるけれど 「本物見てくれ」 というてるだけなんですよ。「このタッチも違うし、もののニュアンスも違う」 と。でも結局一般の人は、もののニュアンスなんかどうでもいいんですよ。
そしてもう一つは、自分が好きなら良い。権威なんて関係ないというてるわりには、何であれがあんなに話題になったと思います。芸術選奨という文化庁が出した賞やからでしょう。まぁ強いて言えば前の安田火災のときに話題になってもよかったんですよね。
あのとき怪文書が出たんだから、でも国家の賞をとったから。あそこの底辺にあるのは、国家が認めたことでこんなことがあっていいのか、という論理ですよ。国家の委託を受けている人間が、テレビが有名と称しているアルベルト・スギ氏のような有名な作家を知らんでいいのか、という論理ですよ。美術なんて統一の価値観もないし皆バラバラでやってるんですよ。「Be TARO」で盛り上げてるんですよ。
でもいざ問題が噴出すると、日本の社会は保守的で、芸術選奨をこんないかがわしい奴がとっていいのか、ということになる。そこで僕が書いたのは、国なんてそんなもんだ。こんなことで国が選ぶのであれば、芸術選奨も芸術院会員も然りだよ。そういう意見が出てこない。今のメディアって、そこが保守的なんです。
さっき言ったように、「Be TARO」 やって儲けろ、藤田を持ち上げろ。それはいい。金儲けはええやないか。でも犯罪者になったら、それは絶対に悪とせなあかんわけですよ。誰でも浮気ぐらいするだろうと思っても不倫は絶対に、悪なんです。その両極の中に今挟まれている。
だから美術は自由でいいんですよ。権威がなくていいんですよ。好きならいいですよ。でも公になったときにはダメなんです。本当に皆がバラバラでいいんだよ。自分の感性でものを考えていたらいい、どうして和田事件のときに、芸術選奨の取り消しに対して、文句を言えへんかったのか、国家が選んだからあかんのですよ。
「アルベルト・スギを知らんですか」 とよく聞かれましたけど、イタリアの人でも現代をやる人と古典をやる人ではまったく生きている世界が違うから、そういうもんですよ。因み寺坂公雄って知ってます。芸術院会員ですよ。日本を代表する作家ですよ。でも間違いなく日本の美術館関係者、ジャーナリストは八割まで知らんと思いますよ。
それを知らんでいいと皆思ってるんですよ。それは美術館の学芸員然り、ジャーナリスト然りね。現に今度の和田義彦ですら、マジであの人間と作品が一致した一般紙の記者三人くらいしかいてないと思いますよ。どんなに芸術選奨とろうが何をとろうが、一般の美術関係記者だって知らんでいいと思ってるんですよ。芸術院会員だって文化勲章だって知らんでいいと思ってるんですよ。
以前に美術手帳が日本画特集を組んだときに、大山忠作の名前知らんかったからね。高山辰雄すら知らんかったのよ。現に美術手帳の芸術院会員の名簿に、死んでいるのに名前が書かれていた人がたくさんあったから、それだけ無関心なんだよ。無関心は無関心でいいの、その無関心な場で芸術選奨なんて問題がないんだから、問題にせずともいいではないか。という意見を言っていいと思いませんか。その問題だけは各紙出てきませんでしたよね。やっぱり国家が選んだ賞というのはね。国家は権威があるんですよ。今の新聞記者だって芸術院賞とか文化勲章とかどうでもいいわけでしょ。福田千惠なんて誰も知らんと思いますよ。

・・・オサルスも知りません。

 芸術院賞とっているんですよ。それが実際の現場なのに、一回美術の世界を超えてしまうと、そんな論理通用せんですよ。「日本画なんかないんだと、院展も日展も見んでいい。皆が好きにやっていればいい」 それは美術の小さい世界で言っていることであって、それが美術の世界を超えたら通用せんですよ。
つまり、芥川賞、直木賞を読んでいない文芸誌のジャーナリストはいてないだろう。どうして芸術院賞や芸術選奨をとった作家を知らんのか、それは記者や学芸員の怠慢だ。と外部から余裕でいうてこられるんですよ。今は美術は特殊なもんやと思われてるけど、そうでしょう。
例えばね。国でも何でもそうだけど地方は別だけど、国家が認めた賞にね、だからこの影響って結構あって、国立美術館の場合は、国家の価値観を反映するような展覧会を公務員はやって当然だ。ということを、もし上から言われて抵抗できる奴がいると思いますか。
結局美術を守るのであれば、徹底してスタンスをもってやってるかといえば、やってないんですよ。だから独立行政法人だといえば、美術作品を売れとか、ボランティアをやれとか言われたら皆従うわけでしょ。それを今度来ますよね。「どうして芸術院会員をおまえら知らんでよいと思ってるんだ」 と。だからそのリアリティーが全くない状況で、皆が盛り上げてワーッと上がってパタンと倒れる。
それはやはり無関心だからなんだ。無関心がいちばん怖いんです。関心を持っていて、自分がこういう立場にいてて活動していると思ったら対応策ができると思うんだけど、東博(東京国立博物館)だって何だって、対応策がないんですよ。だから東博なんて慌ててものを売り出したり、ファッションショーに貸したり、映画にも貸したりしてるわけじゃないですか。おまえちょっと気骨持てよと言いたいですね。無関心が今の美術の状況を生んでいる。そのわりには個人のもんやというんだ。

・・・自分にとってリアリティーを感じなければ、それはまったくの虚構でしかないわけですから。

 和田事件でおもしろかったのは、結局あそこで、登場しているのは、国の人は強いて言えば建畠さんだけですよ。あとは全部 「私」 の人でしょ。最近の国際ビエンナーレの各コミッショナーって、全部そうじゃないですか。前までは国家の人がやっていた。人は立場が状況を作りますから、国立の人というのは国を代表しているというイメージがあるわけですよ。
だから平山郁夫のことを国の人が書くわけじゃないですか。別にその人のことを理解しているわけじゃなくて、自分のことを書ける立場の人を選んでるだけじゃないですか。以前近美(国立近代美術館)の人に言ったのは、誰も近美の人たちに、美術をどれだけ理解しているかなんて望んでいない。国家を背負ってくれる美術論を望んでるわけじゃないですか。だからそれは、近美か東博か東大か東京芸大しかないんです。しかしこの人たちがもう嫌なんですよ。つまり自分たちが国家の権威を背負はなければならないのが嫌なんですよ。
でも、国家公務員なら、国家の権威を守れよ。

・・・まぁ、それもそうですね。

 来年は日展100年ですよ。それに対して、近美がやるべきだと思いますよ。少なくても昭和33年までは官展やったんだもん。それをやるべきなんだけれども嫌なんだもん。それを誰が決めてるかということになったときに、日本の場合は現場が決めるんです。 前にもいうたんですけど、どうして学芸員がそんなことを決められるんだ。ということになるわけですよ。
道路をどう作るかということは、国交省の役人と道路公団の職員が決めてええやないか。とそれが問題になったわけでしょ。おまえらは何の権限があってそんなことやっている。美術だってそうですよ。
そうすると国家というものを背景にした美術館というのは、やはり少なくとも国家的美術館ということを主張する役割を果たしてるとするなら、いったい基軸となる価値観とは何かということを学芸員は決められへんですよ。あくまでも一職員にしか過ぎないんだもの。でも今は平気で学芸員が私はって言えるようになったんですよ。その軽さがやはり怖いな。
だから個人でいいんだと思っていることに、議論がない。議論がないからそれが派手に浮かび立つ。そしたら最後は個人だよ。個人を貫けばいいじゃないですか。国の体勢がどうなろうが、現場から挙げていけばいいじゃないですか。その答えはないですよね。
今は圧倒的に、独立行政法人の上からの圧力がどんどんかかって来ているんですから、金が儲かるものをやれとか、ボランティアをやれとか、作品売れとか、芸大にショップを作ったり、あんなもの損するだけですよ。あんなもん絶対損ですよ。
制服着た女の子3人ぐらい雇うてでですよ。商業主義に変わって、成功するわけないでしょ。商売って、損考えられる人間がいてるから得も考えられるのに、あの人たちって得することしか前提にないんだもん。
ここまでやったらどれぐらいの損をすると、それが何年持ち堪えられるという準備があって、それをやるというのが普通考えられるでしょ。でも考えてない。それで芸大に聞いたの 「ここはいい施設で、いいショップだと言ってくれます」 というてました。それは多分、年金福祉事業団のグリーンピアも、来た人にはそう言われていたんですよね。
でも商売というのは好きで来る人を相手にするのではなくて、興味のない人にどれだけアピールするかということになったときに、来て興味のある人にいいですねと言われてもしょうがないわけですよ。商売ということを考えたら、儲けしか考えない商売。圧倒的に失敗しますよね。これだけ経費を掛けたら、1年間これだけ損してもいいよ。これだけ損してもまた次にやって行けるなとか、損を見込んでだいたい計画とか建てるのに、あの人たちは損を見込んでない。プラスしかない。
そうすると売れんかったらガタンといくんですよ。当たり前のことやと思うでしょ。当たり前のことが成立しないから、グリーンピアとかなんかはあかんようになったわけでしょ。そうしたら学生アルバイトでいいから、制服なんかいらんやないかとかね。予算がないというんだから、そういう発想になる。でも予算がなくてもやるんですよね。やらなあかんと思ってやっている。長期的な展望やなくて上からの要求に対応しているだけなんですよ。

・・・藤田さんの言うのは、生きるということは社会の中で生きるということ、そのなかで息をしている以上は、周りの状況を判断しながら、自分のいる位置をはっきり掴まなければいけないということですね。

 前まではそう思ってたんですけど、最近思うのは、逆に言えば、今度羽黒洞木村東介で展覧(遠藤桑珠 展 -空と雲- 9月7日-18日TEL03-3815-0431 http://www.hagurodo.jp/)
する遠藤桑珠とか佐熊桂一郎とかがすごくえらいなと思い出してるんです。特に佐熊桂一郎は世の中に興味がないんですよ。興味のない人間というのは、それで生きればいいんですよ。金持ちの坊ちゃんで、朝起きて同じような絵ばかり描いて、気力がないぐらい同じ絵を描いてますよ。
でも絵というのはね。その人にとっての慣習なんだな。そうするとそれでやっていきゃいいじゃないですか。僕は思うに自分がどうなりたいかということに対して対応していけばいいわけでしょ。
煽られようが何しようが好きにやれるというのがいちばん豊かな社会、以前は社会的な位置を考えていたけど、それはあくまで美術というのをメジャーにしたい方法なんですよね。でも美術はメジャーにならなくてもいいんだよ。メジャーになることによって。つまり自分が国の役人になることによって、国立の近美に入ることによって、当然国からのプレッシャーもかかるよな。 そうしたら売れへんかっても、一人で個人美術館建ててやってもえやないか。でもそれができないんですよ。そこのギャップが今大きい。
さっき言ったように、「美術は自由でいいんだよ。価値観なんか権威も何もないんだよ。好きでやってればいいんだ。個人の問題だよ」 って美術館の人は、やたらにそれをいうんですよ。
でも和田で問題になったのは何かといえば、美術というのは国家の権威には揺るがされへんのやぞ。それに皆が賛同したわけでしょ。一回も和田さんなんかに逢ったことがない。強いて言えば芸術選奨、芸術院賞、文化勲章に全く関係のない今の全国紙の学芸部の記者が、それについて書かざるをおえんかったわけですよね。
如何に美術というものは個人的でないものか。というのが分かるわけじゃないですか。やっぱり社会と国家が動いたら、それは戦争の問題も一緒でね。以外に戦争画を描いた人って、厭世的ではなく、戦争画って意外とおもろいやん。逆に盛り上げる文章を書く側も、戦争画というのはこれだけ社会的になっておもろいもんやぞ。結構陽気に盛り上げていったと思いますよ。
「欲しがりません勝つまでは」 というと、ものすごく苦渋のような言葉に聞こえるけれど、以外に今度の 「Be TARO」 みたいに軽い感じで、言うてたんやないかな。
例えば奈良さんなんかにしても、「ボランティアでみんなでやったんだよ」 という。この 「みんなでやったんだ」 というのも眉唾ですよね。そんなの皆なんかいてないわけでしょう。奈良美智というブランドの中に集まったものしか。強いて言えば、衰退していく弘前という地方都市の現状の中から、何か共同意識を持ちたい。だから美術というのは安全でええやないか。皆でやってノスタルジックな感じが出た。でもあのノスタルジックなものって危険なんですよね。
つまり現代美術はビビットで、現在をアピールしているものだと言いながら、逆に行ってるんですよ。それは越後妻有アートトリエンナーレや横浜トリエンナーレにもいえて、彼らがやっていることは懐古趣味ですよ。「美術を現実に押し出して来て刺激するものだよ」 と川俣さんも言ってました。でも横浜トリエンナーレでやってたことというのは、手作りの学芸会みたいな中で、のんびりしていてええやないか。あそこで刺激を受けてビビッドで覚醒された人間なんて殆どなくて、逆にあそこで、のんびりこういう時間を過ごしてもええか。一種の現実逃避ですよ。
あれ。奈良さんのやつだって、今日、朝日に載ってたけど、「古いレトロなところに並んでいる・・・」 それは現実逃避ですよ。でも現実逃避は悪くない。人間てさ、現実に負けることばっかりで嫌なことばかりじゃないですか。とかく絵を描く人間なんていうのは強いて言えば、これから多分定年を迎えて、絵を描こうと思っている人間だって、現実に挑戦しようというのではなくて、苦しい現実から趣味の世界に逃れたい。それは旅行に行きたいのと同じじゃないですか。
美術には絶対に現実逃避ってあるんですよ。それはすぐ帰ってこれる安全な現実逃避。ただそこで、大切なのは、今自分がどこに居てるかという認識があって、現実逃避してくれる分にはいいんだけれども、それがないんですよね。それを皆が 「美術に参加することはなんとかだ」 とか言って煽り立てる。それはまさに戦争画を描けといっていることと一緒なんです。
つまりある意味では、奈良美智の展覧会に、ボランティアとしていく人にしても、コヘビ隊で越後妻有に参加する人にしても、強いて言えば、美術なんかどうでもいいんだろうな。「私たちは何かやりたい」 よく言えば現場から飛躍して、よく言えば飛躍、悪くいえば逃避ですよ。それを求めているんです。それは美術でなくてもいい。
亀田に求められるのは、ボクシングじゃなくてもよかったようなもんです。ならそれはそれとして、等身大に受け取ったれというところがあるわけですよ。越後妻有アートトリエンナーレをやったところで、奈良さんが弘前でやったところで、地域振興になんかなりませんよ。過疎化は止まりませんよ。
でも過疎に生きている人間の現実だってあるわけだから、どんなに先がなかったとしても、人間はいずれ死ぬことを考えたら、衰退にちゃんと付きおうたろう。衰退に付き合うためにちゃんとお金を払おう。それがあっていいんですよ。美術というのはそういうものなんです。
成長ということから言えば、あれは無駄金をつこうてるんですよ。衰退のためにちゃんとお金を使おう。そういう認識に立てばそれはそれでいいと思う。でも掛け声は絶対にそうならんのですよ。何かあれをやることによって人が来て、国際的に認められて、経済的成長があるように思う。交流思考なんですよ。
それの典型が村上隆、彼のキャッチフレーズは 「サザビーズで一億円で落札された男」 ですから、やっぱりで美術って現実的で、国際的に認められて、交流でないとあかん。衰退を認めないんです。でもどっかで皆知ってるんですよ。今の俺達は交流なんかできへんよな。村上だって限界があるんだよな。奈良さんだってやっていることは、籔内佐斗司と一緒。あの演出の仕方はね。平山は国内で一億稼げるけど、村上や奈良は国外で稼ぐ。稼ぐ値段は一緒。フィールドが違うだけなんです。
でも世間はそうは言わせたくないんです。どっかでそれを思ってるんだけど、世の中がどんどんどんどん煽り立てる。自分がそこに足を入れていて問題があるとしたら、発言するんだけれども、無関心やからそれも言わない。どうでもようなっているんです。亀田でもそうだけど、盛り上げるだけ盛り上げて、いつか化けの皮が剥がれるわけですよ。
サザビーズで落札されたとき、日本の美術が国外で初めて売れたと、ブルータスは特集を組んだけれど、単にすぐ忘れ去られるだけなんです。村上や奈良は忘れられてもいいんですよ。それが剥がれたときに、人間はものすごく不安になる。それが亀田だったと思いますよ。亀田に怒ってるのは、ボクシングなんかどうでもいい奴だもん。ただあれだけテレビが盛り上げて、「おまえら虚像しかみせへんやろ」 オリンピックからワールドカップから、ライブドアもそうだけど、あれだけ続くと爆発しますよ。でも美術はまだ安全な分野やから、逆に盛り上げが来てる。
その象徴が 「Be TARO」 であり 「藤田」 であり 「越後妻有アートトリエンナーレ」 だと思うんです。だからといって奈良さんや越後妻有アートトリエンナーレが悪いと言ってるわけではない。そういう風な利害の差というのは、すごく出てきている。それは何故かというと、2、3年前であれば美術というものと、社会の体制とか経済に対しての抵抗感があったのに、今もう抵抗感を外すようになってきましたよね。これから景気も良くなって来るし。

・・・え? 景気は良くなるんですか。絶対にならないように思いますけど。

 高いもんとか上がってるじゃないですか。これから美術品は、利殖で上がっていきますよ。そういうものじゃないですか高いものは。美術というのは基本的に薄利多売が成立せえへん商売じゃないですか。高額商品を売って利幅をどんととらなければあかん商売でしょ。金持ちしか相手にでけへん商売なんですよ。

・・・そうかなぁ、数パーセントの利ざやを稼ぐだけだと思ってました。(小声)

 サラリーマンコレクターの登場が美術界を疲弊させたことがあるんですよね。原価率を低くして儲けの幅を大きくしなければあかんのやから、それを如何にも安いものを買いたいという人たちがいてると、美術界はあきまへんよ。
でも今の日本の美術状況ってそういう人で成り立ってるとこがあるんですよね。だからそういう風に美術のあり方を、編成し直さなきゃあかんですよ。それもできない。だから画商は中国や韓国を美味しく思うんです。向こうはまだ昔なりの人が買うてるもん。間違いなく美術の大衆化というのは、今の既成の画商たちの足を引っ張りますよ。小山さんが前に朝日新聞に 「美術の大衆化を目指す」 と言っていたけど、美術なんか大衆化できへんですよ。
例えば、以前、奈良さんの2、3万の作品を今は、50万、60万にして売っているわけですよ。それはどういうことかといえば、美術品というのは基本的に高額商品でなければ儲からない。利幅が多くなければ儲からない商売なんですよ。それを前提として考えれば、美術の大衆化はない。大衆化を目指すというのも眉唾でしょ。
でも大衆化なら大衆化なりに方法があるわけですよ。例えばコレクターに売るとか、作家が自分の周りに売るとか、昔ながらの体制にもっていくか。昔はそれが並列していたけれども、村上の本みたいに国際化が一方に流れる。村上の 「芸術起業論」 読みました?

・・・いいえ。

 あれまともなこと書いてあるのですよ。
強いて言えば、中内功や堤義明が書いた本と一緒。儲けるが勝ちと一緒。つまり世の中というのは美術の論理では通用せえへんのやぞと言ってるんですよ。やっぱり経済の論理でなければ通用しないんだよ。 と言うてるだけの話なんですよ。
なら村上の言っていることをやって美術が本当に産業化できるのかと言ったら、できませんよ。何故できないかと言えば簡単な話で、村上にいわせれば 「才能があって、努力できる奴だけがそれを出来るんだ」 でもこの世の中で、絵描きをやってる人間って、才能ないし、努力もそれほどできへん人間が、8割がた絵描きをやっとるわけですよ。
そうすると社会構造を守るためには、ごく一握りの天才とか、イチローを基準にして、プロ野球の制度を作ったらあかんですよね。でもね日本の昔の画塾制度や公募展は、そこを上手くやっているんです。圧倒的多数はそういう人間であって、その一部の人間をどういう風に上げていくか。
ただ間違いなく美術団体は、それに失敗したわけです。でも今度のように村上の 「芸術起業論」 とか、強いてはメディアの盛り上げ方をして、結局ごく一部の人間だけ盛り上げていくというスタイルは同じ轍を踏むということです。公募団体とか今の日本の既成画壇というのは、現代美術とか新しい美術の中で無関心。「俺達は俺達のルールを守っていたら安泰なんだ」 ということでしょ。日展は日展の論理でやれ、少なくても今の50代、60代はそういう考え方、だから逆に外から村上みたいなものが出てきたら、驚くんですよ。新しい日本画だって。じいさんたちの方が新しがるんです。

・・・お話をお聞きしていると、ジャーナリストも学芸員も美術全体を、俯瞰して眺めていないように思います。

 無関心なんです。無関心でいいというところから始まっているんですよ。ならね。僕は逆にいうと89歳の遠藤さんとかね。大野五郎とか佐熊桂一郎なんですよ。本当に佐熊さんて、個展だと昼間っから酒飲んでる人だし、人の名前も全然覚えへんし、本当に世の中に関心がないの。
でも習慣のごとく朝起きたら絵を描いている。昼ご飯食べてまた絵を描いて、夕方になれば、外へ出て飲む。幸せな人生だと思いませんか。逆に絵というのはそういうものかなと、つまり、向上心や意欲のなくなった人間に、意欲を持てといって絵を描かせてもしょうがないやないか。絵というのが一つの慣習になった場合、職人がもの作るのと同じですよ。
ならそれはそれとしてちゃんと認めればええやないの。いい絵はこんなもんだなと描いているんでしょうね。年取っているから変化もなく、「でもね。美術というの永遠なんだよ。俺が死んでも絵は残るんだよ」 それは嘘やけど、人間というのは永遠を信じる。永遠を信じるということは、一種今の自分を超えたい。現実を超えて生きたいという一つの願望ですよね。
そういう奴が変に今認められたいとか思うなよ。今、認められたいんなら村上みたいにやれよ。逆にいうと今の僕の美術の価値観としたら、本当にアマチュアイズム的なもので、ごく狭い範囲の人間に支えられて、今ならみんなお金があるから永遠に親のスネかじりをして生きて、好きな絵だけ描いておけよ。向上心もなくやれよ。逆に言えば岡本太郎の言っていたことはそれにいちばん近いやないの。
それを如何にも世間から植えられた虚像で生きるなよ。そう思うんですよ。逆にこういうおじいさんたちは、そういうのがなくなってますからねおもしろいですよ。今の現代美術を中心とする村上たちのメディアの盛り上げ方は、強いて言えば結果を出せと言っているんですよ。世界のグローバルスタンダードに乗るためには結果がでなあかんだぞって、結果と現実主義でガンガン言っている。
つまり人を集めなあかん。だから 「Be TARO」 でもいいんだよ。盛り上げるんだよ。「Be TARO」 ってそういうことなんですよ。「越後妻有アートトリエンナーレ」 も人を呼ばなあかんのだよ。政治家にどんどんこちらに目を向けさせて寄付金とらなあかんのだよ。だからここに大きな夢があるみたいな、これで地域振興が出来る。みたいなことを言うんだけれど、できませんよ。できないことは分かっているんだもん。
奈良さんのやっていることはまさにボランティアがたくさん集まって、市民一丸となって新しいものを目指す。そんなものは芽生えませんよ。とかくそういうところに集まるのは中ぶらりなんだもん、とかく人間は宙ぶらりんなんだから、こういうところに寄ってもいいかなと、それを多くの日本人が求めているんならいいんだよ。
でも亀田の問題を見ればどっかで嫌なんですよ。虚像を見せられるのが。やっぱりもっとしっかりしたものが欲しいんですよ。今求められているしっかりしたものは、何かというと、逆に地方にいてて仕事をしながらでも、先生をしながらでも、毎年日展に出して、それなりに満足する人、俺は絵描きなんだと思える人。毎日絵を描いてやっていられる人。そういう中に本当に地に足がついたものがあるんではないかなと、思いだすんです。
自分を支えてくれるのは、ごく少数の人間だ。どんなに展覧会をやったって、見に来てくれる人は限られている。その限られた中に生かされているんだ。そういうことを認識して、好きなことをやる。そこには実像があるわけです。でも今の美術状況というのはその現実認識がないんですよ。 本当に絵は、親族とか一族郎党が買わんと売れるもんじゃない。
絵だけを見て好きになって、本当に買うてくれるものと思っているのか。それは誤解なんです。川崎春彦は言ってますよ。「絵なんて売れるもんじゃない。人間関係で売れていくんだ」 現実を見て、自分がどこで生きてどうなりたいのか。その場合自分がどこに立つか。その現状認識がすごく大事なんですよ。
しかしその現状認識を見たくない。でも中堅以上の作家は知ってますよ。企画の画廊でやってもらうためには、きちっと売り上げを作らなくてはいけないという認識を持ってるんですよ。それは絵描きはどう生きるかというのをすごくリアルに感じているからですよ。多分自由というのはその中からしか出てきぃへんのに、どっかで今中途半端なんですよね。
そういう帰属的なことは嫌、かといって村上のGEISAIみたいなものに出したって宙に浮くだけですよ。何にも繋がらない。まだ公募展に出した方がましですよね。その判断をしようとするきぃすらないんだな。それが外部からいうと煽れということ。煽るということは現状認識なんかどうでもいいんだよ。ってそういうことでしょ。
自分がどういう風になりたいかは自分で考えて、今の自分の位置ならば、どういう風にやったらそれに近づけるか。非常に単純で純粋な考えというのが意外になくて、自分が好きかどうかもわかれへんけど、設定された何かがあってそこへ入っていく。意味だけでいうと、現代美術であろうが、日本画であろうが、なんであろうが、一緒なんですよ。そこからたいしたものが出てくるわけがない。
逆に言えば、日展に入って周りはわかれへんけど、頑張ろうと思てる方が、よっぽどリアルなんですよ。そうしたらもう迷うなよ。否定するなよ。そこで今の美術館の日本画展はそこの基準もなくてやってるもんだから、何やってるんだかよくわかんない。でも見てくれだけはなんとかなると思うてるんですよ。そのみてくれが怖いんですよ。
そういう一貫性のなさ、それは結局人間が生きていくときに負と正があるとしたら、今は絶対負を考えたくないんです。それがものすごく危険。だからそれが藤田の奥さんの言うとおりあれをやって、戦争画にしても茶色いのばかりで、その前の中国戦線のは外したりね。見てみたら、藤田はそんなに描写力のある人じゃないんですよ。そんなに上手い人かなと思うとこもある。
そこをあまり見せないようにしてきた。企画だってこの方向で行こうと思ったらこれでいいんだ。疑問があってもそれで行くという一種の刹那的なものが見えてくる。それが皆にあって、多分それが今の公募団体の人たちにもあるんだ。
国立新美術館の規模を今までの3倍に伸ばして、本当にそれだけの出品料で維持できるかといったら無理ですよ。東京の一等地に壁を与えることによって公募団体が成立するんだと、まだ思っているトップがいたとしたらアホですよね。でも多いんだなぁそういう奴が、でも逆に今公募団体というのは求められてるんですよ。
美術で頭角を表そうと思うと、東京の大学を出ていなければあかんという現状があるじゃないですか。地方から出てくる人が何を望んでいるのか、サービス提供というか、そういうのをきちっとやったら、もっと安心して公募団体に入ってくると思いますよ。それに公募団体は、集金能力と経済力はありますからね。1万円2万円をパーティーで払おうと思ってる奴が、400人も500人もいてる集団ですよ。
少なくても二科なんか出品料が1万5千円、パーティー代は多分2万ぐらいですよ。帝国ホテルなんかでやってるんだもん。それが300人、400人は確実に来るんですよ。この集金能力ってすごいですよ。日展なんか億単位の金を動かせへんかったらやってかれへんわけでしょ。
今ね。会場費だけで300万から350万払ろてるんですよ。何だかんだの経費を入れたら2000万単位の金を東京でやるだけで捻出してるんですよ。そういう組織は使い方によってはすごいもんなんですよ。だから昔の絵描きは、「数は力だ」 と言ったんですよ。絵なんか売れへんぞ。人間関係の数の上に成ることによって、勢力を発揮できて、自分の絵も売れていく。お付き合いで売れるということを知っていたわけじゃないですか。

・・・じゃぁ、ここで新たに再編成をすれば、蘇るということですか。

 これから5年ぐらい伸びるんですよ。2007年問題があるでしょ。皆退職して絵でも描こうかって、結構多なるけど、それから急激に減ってくるんです。今、書道展はものすごく増えてるし、貸会場はどこも盛況ですよ。塗り絵を出したらみんなが塗り絵を描いているのと一緒で、どこかでそれをやりたい。その受け皿として公募展というのはものすごくいい受け皿なんですよ。結構お金も出すしね。
問題は彼らに満足を与えてより発展させられるかという経営能力がある人がゼロに近い。それに今は美術家の論理の中だけで動いているからそれで成立するんだけれども、より多くの人たちが出入りしてくるようになったら、その論理は通用せえへんようになる。日展なんかでも定年した人が実権を握っているのはどういうことだとなるわけだから。
何故僕がこういうことをいうかというと、今はどっちかだと思うんです。美術の論理で生きるなら、徹底して美術の論理で生きろ、こういう人たちはその論理のなかでしか生きていないんだもん。全部の生活をこの論理の中に押し込めているわけですよね。まだ東郷青児やなんかがいてた頃と同じで、昔のままやってるじゃないですか。公募展は再組織化できてないんですよね。強いてに言えばカリスマ的な組織だったのが今はカリスマではなくなった。
世の中にスターなんかいりませんよ。立場が人を作るというのがあって、芸術院会員になったときの影響力ってすごいものなんですよ。だからそれを一般社会化しようと思ったら意外にできないことはない。トップ次第。東郷青児や宮本三郎はそれをやってきたわけじゃないですか。今は村上たちがそれをやっている。現代美術がやっている。だから社会化したでしょ。
でも公募展の地方に張り巡らされた圧倒的な支持基盤を考えたらすごいことなんですよ。問題はそれをどこにもっていくかだけの話なんですよ。そのためには昔と違って、出品してる人間が何を求めいるかという要求も違うわけじゃないですか。それを察してやらないといけない。
「絵の善し悪しなんてな、ちゃんとその上に乗っけてやったら、よく見えてくるものなんだよ」 と昔の絵描きはいうてますよ。ただ組織全体をどういう風に向けるか。つまり同じような具象の絵を描いていて、村上んとこの GEISAIにあったら新しく見えるみたいな感じでしょ。絵自体に力があるわけじゃないんですよ。状況設定が変われば変わるんだから、だから公募展にもメリットが増えることによって、頭のいい奴は出してきますよ。
今のトップは大学の先生たちだから、そういう人間が上にいてる限りダメだけど、それがもう一回立場を変えてみたら意外に大きな勢力にもなりうる。つまりそれは絵がいいとか、絵が悪いとかとは違う話で、徹底的に社会化していくということ。だから 「Be TARO」 みたいに盛り上げるごとくに、さもそれらしく組織を再編成して、それだけの支持基盤と集金能力さえあれば、絵なんてものはあっという間に、昨日と違う見え方をするって、それはどっちにつくかによって価値観が違うのに、さも何か絶対的ないい絵があるみたいに、皆思うでしょ。何か幻想があるんですよ。それが問題なんですよ。
美術の業界にいてる人の方が意外とそういうものがあるんですよ。そんなのないやろ。奈良さん見てると藪内に演出が似てきたもん。だから逆に、強いて言えば絵描きは、如何に気ままな自己世界を生きられるかですよ。そこに皆が求めている老境と美しき美術みたいなものが共通してあるんやないかな。それこそが等身大の美術の豊かさだ。と思てる人は意外に多いやないかなと、僕も最近思い出したんです。

・・・確かに立ち位置がはっきり分かっていれば見えてくるものがあるでしょうね。それをモノローグではなくて俯瞰的に見て描いていけばいいわけだから。

 プロはね。それを如何に多くの人たちに、解からせるために幅を広げるかというのがプロでしょ。それを1億人に見せる人間と、100人か10人に見せるかの違い。村上の言うてる企業体というのは、自分がどういうものを相手にしているのかっていう、社会的な対応の仕方だけなんです本当は。
それは美術の価値の問題ではなくて、対応の仕方に於いてね。小劇場は小劇場なりのまとまりをして、テレビはテレビなりの演出がある。それにしか過ぎないものが、それがテーマになってしもてるわけですよ。
だから村上の本が出たときに、これが日本の美術の現状かという錯覚を生むんですよ。「Be TARO」 でも何でも錯覚ですよ。岡本太郎とうのは、美術という狭い世界の価値観の中で、培養されてきた人ですよ。だから東郷さんと仲がいいんですよ。その土壌をすこっと抜いてしまうというのは危険なんです。

・・・基本的には、人間は声が届く範囲、歩いていかれる距離ぐらいしか認識できない。それを皆が思ってやっていけばいいじゃないですか。

多分それが難しい。糸井重里はどう思ってやっているのか、しゃれと思ってやってんのか。「Be TARO」 それはないじゃないかと本当に思う。

・・・公募展が再構築されたら、演出を糸井重里氏に頼めば、とてもおもしろくなると思うんですけど。

 あの人は広告の人でしょう。広告プランナーというのは基本的に対応業なんですよ。あの人が見ているのは市場という不特定多数の対応なんですよ。そのときに岡本太郎の立っている狭い世界・・・。
糸井さん。あの人農業をやるでしょ。素人が農業をやると困るんですよ。工芸と一緒で素人がたくさんやることによって、業界が滅びていったじゃないですか。そういう意味ではすごく不特定多数向けのものなんですよ。でもみんなが求めているものは本当にそれなのかな。格差社会だとか、人口が減るとか、日本の衰退がいわれている中で、本当に日本人はもう1回世界に打って出て、大きく不特定多数の海に乗り出そうという活力があるんだろうか。
むしろ自分の等身大の位置で衰退を受け止めましょうと、そういう価値観の方が多いのに、俗にいう高度成長期みたいな掛け声、そのずれ、そこに農業だとか、京都だとか、言葉の散りばめとして古いものを持ってくるだけで、基本的には交流思考なんです。それは北川フラム氏とか皆に垣間見れるんですよ。それは嘘だろって・・・。

・・・確かに。

 美術というのは自分がどう生きたいのかということを思うことじゃないですか。
表現者として大事なのは、自分がどこに生きて、どういう存在であって、何を目指すかということの意思でしょ。これが明快な人というのは意外と安心できるんですよ。
何かをやるということは、何かを切るということがあるのに、皆何を切るという意識がなさすぎる。それが今の混沌を生んだ。美術というのはある意味で現実逃避みたいなことがあるから、バランスとれてなくも象徴的な人物がいるじゃないですか。この人はどこに生きていて何を捨ているのか。
わかる人というのは、以外におもしろいかと思うんです。それを小さくても、幅広く見えるようにしようというのがジャーナリズムであったり、美術館であったりするのに、その意識がない。和田さんの問題もそうだけど、テレビなんか本物を見たくないの。テレビが相手にしている人々というものは、美術なんかどうでもいいんだもん。
前にファッションの人に聞いたんだけど、パリコレなんてね。1週間経ったら東京にガンガン並んでるって、著作権も特許権もないに等しいからね。考えてみたら自由なんだから、それを前提にあれをやっているわけじゃないですか。そうしたらその前提をどこにとるかというのは、本当は自分たちが一人一人考えなあかん時代なんですよ。
つまり美術の中で生きたいのならそういう生き方だってあるんだよ。それだけ豊かなんですよ。公募展だって一人一人美術をやりたい人間が年一回地方から出てきて、そこに様々な美術だけで生きられるよという。オプションみたいなものがあってね。で、村上が言っているみたいに、「世界だ」 というのがあっていいわけです。それは求められるものも違うし、望むものも違うんだよ。同じ価値観ではいてないんだよ。その当たり前のことがド〜ンと抜けているという感じがします。
だから先の日本画の話に戻ると、さも新しい日本画と一言いうたら、それが皆分かってるかのごとく、思うとるという認識のなさですね。認識していたら、旧体制のものなんか分からなくていいんだよ。とは口が裂けてもいえへんと思うけど、そう思てんですよ。でも北澤さんたちは、対抗する相手がいてた時代だから、必ず日展はねとか。院展はね。という言葉をつけて語るわけですよ。その落差ははっきり出ました。
だから加藤さんとかは対談しようとか、シンポジウムをしようとかという意思は最初からないもん。日本画の今の新しさというのは、北澤さんたちや天野さんたちが組織だてたラインを突っ走っているだけだから、もう新しくないんですよ。でもそれもすぐなくなる。今は北澤さんはすごい権威になっている。それだけ。ただ、北澤さんの制度論はたいしたものなんですよ。あの人はとても政治的な人やもん。でも政治という現実は理屈では動かんのですよ。
北澤さんも天野さんもそうだけど、文献から入った理としての制度論はいうてくれるんですよ。でもそれを動かしている人間の心理というものに関わっていかない。画塾制度というものに絶対に北澤さんは関わっていかない。それは利害関係に関わる絵描きの心理に関わる問題でしょ。北澤さんは決して現代の問題に関わってきませんよ。何故かというと、世の中を動かしているのは、制度ではないということを知っているからですよ。心理なんですよ。

・・・なるほど。

 タイトルに日本画と付けることに、何か意味があるのかというと、何でもできるし驚いてくれる。新聞にはそういうコピーが踊ってますよ。コピーを書く人間は、そんなこと意識してませんからね。
だから結局、皆が皆そうでもないかもしれませんけれど、今の美術状況で見えてくるのは、美術に何を求めているのか。何がしたいのか。どうなりたいのか。それがないんですよ。つまりどうなりたいのかがあれば、この立場に立ったらどういう義務をおわないかんというのが分かるわけです。それがないんですよ。
だから国立の美術館の学芸員も、私立の美術館の学芸員も、区立の美術館の学芸員も、強いて言えば国立大学の教授も私立大学の教授も同じでいいんだ。そういうことはないんですよ絶対、求められるものが違う。だからそこに今回の和田さんみたいに、国が絡んだときに、すごくギャップが起きるわけですよ。
本来なら思いませんか。あの審査員の人たち、瀧さんは確信犯だろうけど、結局美術のことは美術の奴等が選んでいるんだということを見せたようなものじゃないですか。どうせわかれへんのだもん。わからんでいいんだというてるようなものじゃないですか。わからなあかんですよ。素人は素人なりに、解かって、解から人間は解からん人間なりに、判断して一票を投じるというのが民主主義というものなんだから。
結局今の美術は、どこかでわかったもんが決めるんだよ。というような風潮がある。じゃ。わかったもんとは何かということが、見えんようになっている。前までだったら一応わかっている人間は、自分のフィールド意外のもんとのバランスをとったのに、とられんでいいようになっている。
その代表的なのが日本画の二つの展覧会です。どういう基準で選んだというたら、加藤さんが言いましたよ。「日本的なスタイルとか、日本的なものを守っている」 と。そうしたら院展やらにもいてるやろ。どうしてそれを切るんだ。つまり自分たちが選んだ理由はいうけども、何故自分たちがそれを切ったかという理由はいわないんだもん。そんなことは言わんでいい。問われもせえへん。
今回だって芸術選奨なんか問われもせえへんと思てるんですよ。でもあれが今の美術の縮図だなと思いました。美術の私的な世界を超えて、まったく利害の違う人間が並び立ったときにですよ。「公」 が出てくるわけでしょ。「公」 というのは、国という一つの基準になったときに、芸術院会員を知らんようなものなんて許しませんよ。そりゃ、草間弥生と寺坂公雄なら、当然公共の学芸員は、寺坂公雄を知ってなあかんですよ。それ、思いません?

・・・自分の周りしか見ないんじゃないですか。

 いうとくけど、趣味でやってるんじゃないんですよ。公共の学芸員というのは、公共の職務としてやっている。だからどうして和田さんを知らんのか、知らん人間ばかりですよ。

・・・私も知りませんでした。

 趣味ならいいんですよ。でも 「公」 になったら違うんだよ。強いて言えば草間弥生をガンガンを語る人たち、それはテリトリーの問題だというかもしれへんけど、それを誰が決めたのか、自分で決めるだけでしょ。しかし世間はそんなことは望んでないですよ。芸術院会員はすごい絵描きやと思ってるんですよ。そこを思てないというところから始めることはおかしいんですよ。
そういう意味では北澤さんの方がまだ明確。自分がこういうところから出発しているというのがあの人にはあるもん。ただ言うてることに疑問はあるよ。でも本当はあの土壌に立って、全く違う土壌の人たちが同じことを語り合うっていうのがシンポジウムですよね。でも皆土壌を持ってないんだもん。
以前このシンポジウムを横浜でやったときに、絵描きでいうとね。土屋禮一、手塚雄二、福王子一彦ぐらい呼べよといいたい。土屋さんは何だかんだいって大学教授だけれど、日展の中にいて画塾の塾頭なんですよ。福王子さんも塾頭、アカデミズムに居てるんだけども、公募団体の社会の中でがっちり生きている手塚さん。
まったく対極にある人間というものと話をしない限りわからないでしょ。そうすると岡村さんが日本画家やってわかる。でもどうしてもそれが嫌なんだなぁ。多分北澤さんたちそれが嫌なんだと思う。だから自分たちの世界観だけを盛り上げて確立させたい。
前の工芸のシンポジウムもそうでしたね。楽さんは呼ぶんだけれども、大樋さんとかは呼ばない。
つまりなんか自分の方向にもっていきたいという意識がある。それは、煽りと一緒ですよね。自分と世界観というものを全く違うものとして対峙させるということに、すごく恐怖感を皆覚えているんやないかな。それだけ視野がすごく狭もなってるんですよ。
今の美術のおもしろくなさというのは、結局世界はこれだけ広くなったとか、美術を超えたとかなんとかいうけれど、ものすごく世界を狭く狭く狭くしていく。狭くして、煽り煽り煽りでくる。そうすると当然虚像が化けますよね。化けたときにすべてをゴトンと落とす。

・・・そうするとまた次がでてくるわけですね。

 そう次が出てくる。確信してやってる人間はいいんですよ。圧倒的に確信してない人間がそれに乗せられている。だから最近ベテランの人たちがおもしろいなと、この人たちはちゃんと生きてるよと思うもん。
つまりね。豊かな社会というのは何かっていうのはね。村上がいうみたいに皆が経済力を持つことでもなく、世界に認められる・・・それは今のワールドカップと一緒でね。村上の論理は 「勝て」 という論理なんですよ。
「世の中って勝たんとあかんだぞ」 というてるんですよ。勝つためにはこうすべきだ。でも世の中ってね。圧倒的人間は負けるんですよね。美術に求められるのは負けた人間をどうすべきか。負ける人間のために 「永遠」 がいるわけじゃないですか。永遠に答えが出えへんように
今、美術に求められているものというのは、現実というものから距離を置かなければならない人間が、どれだけ充足できるかという論理だとすりゃね。如何に自分たちが自分たちの敗北を認めて生きられるか。充足感を求めていると思うんですよ。だから変な虚像は求めていない。現実逃避は求めているかもしれへんけど、大いなる虚像は求めていないですよ絶対。
だから逆に売れる絵描きなんか求めてないんですよ。むしろ自分の近くに絵描きさんがいてて、その絵描きさんと楽しくお茶を飲んで、逆に昔のようにそういう人が、周りにいてなくなったから、今学校の先生なら、先生しかできへん状況でしょ。そうすると逆に絵描きさんが側にいてて、絵画教室をしていて生徒を教えて、その先生が個展をやれば、生徒は12、3万円なら買えるかなみたいな。そういうことを望んでるんではないかなという気がどっかでするんですよ。
絵なんか人間関係がなければ売れへんのやし、もう一つは、自分をわかってくると思って絵なんか描くなよな。人間ちゅうのは、わかってくれへんのだぞ。そのなかでお互いバランスをとってやってきているわけでしょ。皆が自分が何を求めているのかを理解すれば、日本の美術状況って決して悪くないんですよ。展覧会数も情報量も多いしね。

・・・悪くないのかなぁ。

 結局何をやりたいかとか。どうなりたいのかというのが中途半端なまま時代の流れが、社会化へ、社会化へと向かっていく。方法論ばかりが言われて、結局村上みたいに儲けなあかんぞという論理が来る。国際化やという論理が来る。横浜トリエンナーレみたいに世界に向けなあかんというのが来る。
でも何のために世界に認められなければあかんの、独立行政法人だって、何のために商売せなあかんの。そういう理由付けが皆ないんだもん。本当は前の状況のままいてたいんですよ。そうしたら前のままいてる方法を考えればええやないの。日展でええやない。公募展でええやない。皆が一流作家になるんではなくてね。
その限られた人たちを集める中でピラミッド社会を構成している。それが人口が減っていって、老人も減ることによって規模がどんどん収縮されていくだろう。そうしたら滅びりゃええやないか。
今は日展なんかでも平均年齢が80近くなってきた、どんどん死んでいてるんやから、最後なくなるんですよ。それを受け止めればええやないかと思うんです。皆が求めているのはそっちなのに、社会が強引にメジャーになれ、美術を超えなきゃあかん。それが最初に言ったように、藤田や岡本太郎にもある。藤田は国際スターであって、日本から追い出された悲劇のヒーローに仕立てなあかんと押していく。そして批判もない。
「Be TARO」 もそうだけど、それが嫌かな。メディアはある意味受け身なもんだから、「Be TARO」 といえば受け身にそれをとらえる。藤田といったら受け身にそれをとらえる。どうでもいいから受け身がずっとある。
問題は、受け身、受け身、受け身になっていたときに、状況が積み重なって、既成のものにグッとなっていく。それが今のメディアの人たちがわかっていてやっている。それが、「Be TARO」 に代表されるように思う。問題は、どこかで間違ってるよなと思っても、それが波のように流れる。これがいちばん怖いんですよね。

「怖いのなんのと。いい加減してくれないか!」

・・・ここで三四郎のご主人から怒りの鉄拳がはいりましたので、今日はここまでにさせて下さい。

どうもありがとうございました。

前回のインタビュー2003年7月 http://www.gaden.jp/info/2003a/030723/0723.htm

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